Karte No.2-14

「社長? 今日もこちらに来てくださったんですか?」
 クラブ泉のバーカウンターで、その嫌味なほど長い足を組んで座っていた遥夏に声を掛けたのはホステスの美樹だった。
 今まで遥夏の相手をしていたバーテンダーは、美樹が来るとその身をスッと引く。
 馴染みの上客を送り出した帰り、美樹がバーカウンターに目をやるとそこに遥夏の姿が見えた。それを確認するや否や、美樹はそのまま遥夏の元へとやってきたのだ。
「奥に行きましょう、社長。すぐにお席をご用意しますわ」
 美樹は最上級の笑みで遥夏を誘う。
 しかし、
「今日はゆっくり酒を飲みに来た訳じゃない」
 遥夏は今まで吸っていた煙草を灰皿に押しつけながらその誘いを断った。その表情はいつも美樹達に見せているものと同じで無表情極まりない。むしろ今日は少し機嫌が悪い雰囲気さえある。
 しかし、美樹もそれで簡単に引く女ではない。その相手が遥夏ともなれば、是が非でも自分がもてなしたいと望む。
「あら、まだお仕事が? でも少しくらいなら良いじゃないですか」
 美樹は「ね?」と小首を傾げながら遥夏に誘いを掛ける。
 これで大概の男は「じゃあ……」と彼女の媚態に陥落する。美樹はもちろんそれを計算済みでやっているのだが……
「美樹、こんなところで油売ってないでさっさと客取って稼げ」
 遥夏が乗ってくる気配はない。
 ならば、と美樹は遥夏の背にその豊かな胸を押しつける様にし、彼の耳元で囁く。
「でしたら、遥夏様がご指名ください。ね? そのまま明日の朝までずっと……お願い」
 一瞬、遥夏の表情がピクリと動いた。しかしそれは決して嬉しくてという意味合いではない。どちらかといえば不機嫌さが更に増した感じさえ受ける。
 そんなことにも気づかず、美樹はさらなる陥穽を仕掛けようと遥夏の背中をゆっくりと撫でる。時折、美樹の指に美しく施されたネイルが店内のライトを反射して艶めかしく光る。
「遥夏様? 一緒に……」
「黙れ」
 媚びるような美樹の言葉を、低く冷たい声が遮った。
 黙れ――たった三音の言葉であったのにそれは十分過ぎるほど威迫的であり、美樹は思わず遥夏から離れる。
「遥……」
「黙れと言ったのが聞こえなかったのか?」
 今度は名前を呼ぶことさえ許さずに遥夏は美樹を遮った。
 続けていつもの比ではない鋭く冷徹な遥夏の視線が美樹を襲う。
「美樹、お前に名前を呼ぶことを許可したのはベッドの中だけだ。忘れたか?」
「…………」
 美樹はそれに返事をしなかった。いや、できなかった。
 向けられる遥夏の眼光があまりに鋭く、刺すように冷たくて……美樹はまるで指先まで金縛りにあったような気分だった。
 そんな美樹などお構いなしに遥夏は低く圧力のある声で続ける。
「その許可を与えたのも、あの日あの晩に限ってのこと。俺はもうお前をベッドへ招くつもりはない。……それだけ言えば、言いたいことは分かるな? お前はそんなに馬鹿な女じゃないと記憶している。分かったら、さっさと仕事に戻れ。同じ事は二度言わせるな」
 遥夏はそう言って新たな煙草を一本くわえた。同時に、奥に下がっていたバーテンダーに手を挙げ、新しく杯を用意するように合図をする。
 さすがの美樹も、これ以上は仕掛けられないと踏んだのか、すごすごとその場を後にした。
 それから、遥夏の煙草に中程まで火が進んだ頃、バーカウンターのさらに奥、『STAFF ONLY』と書かれた事務所と通じる扉がガチャリと開く。そこから出てきたのは一目で医療者と分かる支度をした一人の女性。
 遥夏はそれを確認するなり、煙草を灰皿に押しつけて席を立つ。その時わずかばかり目尻が下がったのには誰も気づかない。
「なによ、今日はここにいたわけ?」
 扉を出るなり迎えた男に、香夜はあからさまに冷たい言葉を投げかける。前回キスをされてから初めて会うのだからそれも無理はない。
 会った途端にその頬を張らないだけ思慮深く、常識のある人間だと香夜は自分で自分を褒めてやる。
「仕事で近くに来たら、香夜がいるって聞いてね」
 遥夏の答えを聞きながら香夜はフッと今まで彼がいたバーカウンターへ目をやる。そこには、飲みかけのグラスと何本か吸い殻が押しつぶされた灰皿が見えた。
「綺麗なお姉さんに傅かれて飲んでたの? 良いご身分ですこと。いいわよ、こっちに来なくたって」
「それって嫉妬?」
 突き放すような言い方をする香夜に、遥夏はクスリと笑みを零す。
 そんな遥夏を香夜キッときつい表情で見やる。
「自惚れないで。不意打ちでキスするような変態に嫉妬なんかしないわよ! あれがファーストキスだったらどうしてくれるのよ!?」
 人前であることを考慮してある程度抑えた声ではあるが、その語尾には自然と力が入る。
 先日のことを思い出し、怒気さえ孕んでいる香夜とは対照的に遥夏は相変わらず楽しそうだ。
「でも、幸か不幸か……違うだろう? 初めてなら、あんな風に応戦できやしない。それより……記憶に残るほどいいキスだったか?」
「馬鹿言わないで。喫煙者との不味いキスなんて、悪い思い出にはなっても良い思い出になんてなるわけないでしょう」
「だったら、禁煙しようか? そしたら、良い思い出になる」
 構うように尋ねる遥夏に、香夜が答えることはなかった。
 代わりに、これ以上は付き合っていられない……とばかりに、香夜はそのまま無言で遥夏の隣をすり抜けようとする。
「待てよ」
 そんな香夜を逃すまいと遥夏がその腕を取れば、反動で不機嫌な香夜の顔が向けられる。
「悪かったって。そんな顔するなよ。今度は断ってからするよ。それに、禁煙も考えておく」
(……断れば良いってもんじゃないでしょうよ)
 遥夏の言葉に香夜は思うが、それだけで口には出さない。加えて、ヘビースモーカーがそう簡単に禁煙できるものかと密かにツッコミもする。
「それより、仕事は終わったんだろう?」
 不機嫌極まりない香夜に対し、遥夏は問いかける。
 時計は既に十二時近くを指している。この時間からして、この上さらに香夜が大仕事をするとは思えないし、彼女の雇用主もその辺りは甘いことを遥夏はよく把握している。
「一応ね。このままクリニックに戻って、着替えたら帰るわよ。院長も今日は早く上がって良いって言ってたし」
 案の定、香夜からそんな返答が帰ってきた。
「だったら、その後軽く何か食べに行かないか? ご要望があるなら、飲みにでも」
 遥夏は待ってましたとばかりに誘いを掛ける。
 が、
「嫌。わたしはこのまますぐ帰るの。忙しいから」
 誘いは迷うことなく断られた。一瞬、遥夏の顔が歪む。
「何の用事だ? 俺の誘いを蹴るほど大切?」
「そう。大切な用事」
 今度もはっきりと言い切った香夜に、遥夏の目は自然と鋭くなる。
「それって……男か?」
 遥夏は少しの間も置かずに問いかける。
 以前、香夜の身辺調査をした神崎が“面白い情報も何点か上がっている”と言っていた。あの時に断ったまま、その身辺調査の結果については何も聞いていないが、彼氏の一人くらいいてもおかしくない。
「何だって良いでしょう」
「良くないね。どんな用事?」
 問うても欲する答えをくれない香夜に、遥夏は彼女の顎をクッと持ち上げて綺麗な顔で微笑んだ。しかしそんな彼の表情は嬉しいとか楽しいとかいった感情を含む物ではない。
 一瞬、またこの前のようにキスをされるのかと香夜は勘ぐったが、そういう様子でもなかった。
 だから、
(無駄に近寄らないでよ。毛穴が気になる年頃なのよ)
 どうでも良いことを思いながら、香夜は無表情で遥夏を見据える。
「断るならそれなりの理由、聞かせて貰えないと引き下がれないね」
 言葉の通りまったく引き下がる気のない遥夏に、香夜は小さく一つ溜息を吐く。
「すっごく大切な用事。わたし帰って一刻も早く寝たいの。もうお肌の曲がり角過ぎたから、夜更かし厳禁。寝る前に物を食べるなんて以ての外。そういうわけだから諦めて。それに、ここのお姉さま達を誘っていった方が良いんじゃないの? よく知らないけど、そういうの、アフターって言うの? わたしよりよっぽど見目もいいし、連れてて綺麗じゃない。社長業に箔も付くわよ」
 香夜は早口にそれだけの理由を並べ立てると遥夏の手を振り払う。
 ただ、それではあまりに邪険にしすぎだと思った香夜は、「まぁ、今度常識的な時間に誘ってくれれば考えるから」とだけ継ぎ足してその場を去った。
 遥夏はそんな香夜をそれ以上追うようなことはしなかった。代わりにその背中を見送りながら、
「……綺麗なだけの女じゃ面白くないんだよ」
 呟くように言った。その表情にはわずかに笑みが浮かべられている。
 確かに、連れて歩くには美樹達の方が見目はいいし体裁も整う。香夜の言うとおり、箔を付けるにはもってこいだ。
 しかし、遥夏が今欲するのはそんな女じゃない。容姿がいくら綺麗だろうがそんなことは関係ない。
 欲しいのは、そう――自分の誘いを迷うことなく断り、その理由にどうでも良いようなことを平気で並べ立てられるだけの度胸の据わった女だ。
(相変わらずいい女だな、香夜……)
 欲する女――香夜を何としてでも傅かせてみたいという支配欲が遥夏の中でジワジワと増殖する。
 その時、
「あーあ、遥ちゃん振られちゃった」
 突然聞こえた声に振り返れば、今しがた香夜が出てきた扉から紘務が顔を覗かせていた。


Karte No.2-14