Karte No.2-15

「遥ちゃんの負けだよ。香夜ちゃんもその気はないんだからもうやめなって。お前なら女なんて腐るほど居るでしょう?」
 ドアから体を半分出した紘務は、獲物を仕損じた遥夏に肩を竦めてみせる。
「嫌だね。手に入らない物ほど欲しくなる……俺の執念深さ、紘さんも知ってるだろう?」
 遥夏は紘務の話など聞く耳持たずといった感じで香夜が出て行った方へと再び視線を戻す。
「遥ちゃん、ネチッこい男は嫌われるよ~。それに、最初から肉食獣みたいにギラギラしてたら怖いでしょう。今の世の中、草食系が流行りなんだよ。遥ちゃんもやり方をよく考えて……」
「それで? 何? 俺に用事だろう?」
 もう十分だ、とばかりに話を遮った遥夏に、紘務は無言で手招きをして事務所の中へと誘った。
 それからすぐのことだった。
 どこからともなく現れた美樹は、今まで遥夏のいたスツールに腰掛け、遥夏が飲み残したバーボンの入ったグラスを愛おしそうに撫でる。そのグラスを持ち上げると、そっと一口バーボンを含む。
「ねぇ……」
 猫を撫でるようなその呼びかけに、カウンターの内側にいたバーテンダーの青年は、一瞬、それが自分へ向けられたものなのかどうか悩み、返答せずにいる。
「ねぇ、今の誰?」
 再度話しかけられ、青年はいよいよ自分に話しかけられていると気づく。
「支配人が杏子さんのために呼んだ病院の方のようです」
 青年は今まで拭いていたグラスを置き、美樹に答える。
 最近仕事を始めたばかりのこの青年は、普段、店の女の子と他愛の無い話をすることもあるが、美樹クラスのホステスとはほぼ会話を交わしたことも無いため、いささか変な緊張を覚える。
「杏子? そういえば、今夜は姿を見ないわね。その病院の人が、社長とどういう関係?」
「……さぁ、それは分かりません。仲はよろしいようでしたが」
 美樹は今までグラスを撫でていた手を止め、それを青年の腕へと伸ばす。
 ワイシャツ越しに感じる美樹の体温に、青年はピクリと反応する。
 美樹は反対にそれを楽しむように青年の腕を撫でる。
「そんなの、見てたら分かるわ」
 そう、美樹は先ほど退席したと見せかけて、物陰からずっと遥夏と香夜の様子をうかがっていたのだ。
「だからぁ、どう仲がいいのかって聞いてるの。あなた、そばで話を聞いていたんでしょう?」
 美樹は上目遣いに青年に尋ねる。
 その美しさと、先ほどからワザと見せつけているのであろうドレスの隙間から覗く胸の谷間に、青年は緊張を高めていく。
「ねぇ、何を話していたの?」
「わ、わかりません……」
「嘘吐かないで」
「ほ、本当にわからないんです。社長のお話に……聞き耳を立てているのも申し訳ないと思いまして、自分は少し離れたところにいましたから」
 その青年の返答が終わった時だった。
 美樹はその爪をギリッと青年の腕に立てる。
「――ッッ!」
 突然生じた痛みに青年は顔を歪める。
「ヤ、ク、タ、タ、ズ」
 美樹は爪の力を込めながら、たっぷり時間を掛けてその台詞を吐いた。
 その顔は笑ってはいたが、ある種般若のような恐ろしささえあり、青年は腕の痛みと共に悲鳴を上げそうになる。
「す、すみません!!」
 青年の口から思わず漏れた謝罪に、美樹はまるで興をそがれたとでも言うかのようにスツールから立ち、バックヤードへと姿を消した。
 青年は、未だ痛みの残る腕を摩りながら、ただ唖然とした表情でその姿を見送るしか無かった。


 ◆◆◆


「あのさぁ、杏子ちゃんて子のことだけど……随分厄介な所と関係してるね」
 遥夏が事務所に入るなり、前置きもなく本題を話し始めたのは紘務だった。
「確か、借金があるんだったか? 男の借金を請け負った……そうだったな、蔵本」
 遥夏は紘務の話を聞きながらすぐさま先日蔵本から聞いた話を思い出し、その場にいた彼に話を振る。
「はい。総計で三〇〇ほど。ただ利子やら何やらが付いて五〇〇近くに膨れているようですが」
 紘務はその額を聞いてうわっと小さく声を漏らした。
「で、それが厄介だって? 借金があってこういう店で稼いでる女なんて、その辺にゴロゴロしてるだろう。今更……」
「違う。問題なのは借金の額じゃないんだ。借りてるところ……ね、蔵ぽん」
「どういうことだ?」
 遥夏はその眉間にわずかに皺を寄せる。
「元々杏子の返済相手は個人経営のしがないローン会社だと報告が上がっていました。ですが、よくよく調べさせてみればそのバックには室井興業(むろいこうぎょう)がいたんです」
 蔵本の言葉に遥夏はわずかにその顔を顰める。
 室井興業――遥夏が反応したのはその固有名詞だった。
「室井組か……」
 遥夏は呟く様にその名を口にした。
 四代目室井組――――
 関東圏において、黒龍会に次ぐ勢力を持つとされている広域指定暴力団。数年前、代替わりをし、現在は先代の嫡男、室井(むろい)広世(こうせい)がその全てを取り仕切っている。
 この室井組は構成員と準構成員併せて一万人にも満たない組織であり、本来ならば黒龍会には到底及ばない。それでも、次席を保持している理由は“何でもする”からに他ならない。
 裏社会の常としてどの組織でも法に触れることは多かれ少なかれ行っている。それはもちろん遥夏達の黒龍会も例に漏れず、の話だ。
 しかし黒龍会は未だに昔気質の所があり、先々代からの意向で、ある部分には決して手を出さないと決めている。
 それは――薬と未成年。
 どんな悪事を働いてもそこにだけは手出しを認めないのが黒龍会の方針であり、万が一にもそこへの関与が明らかとなればそれは例外なく内部制裁の対象、さらには破門・絶縁にさえなる。
 それに目を付けたのが二代前の室井組だった。元々黒龍会とは犬猿関係にあった室井組は、これ幸いとばかりに薬や未成年に関する案件全てに手を出したのだ。結果、それ関連の案件については現在、全て室井組が独占していると言っても過言ではない。少なくとも東日本での市場は全て室井組が関わっている。
 彼らは薬の売買、密輸はもちろん、未成年という括りの中では幼児の人身売買までもやっていると専らの噂だ。そのあまりのやり方に、遥夏の祖父や父は過去に何度も室井組に忠告をし、一触即発の状態を引き起こしている。
 しかし、室井組はそれに怯えるどころかさらにやり口を汚くして台頭してきた。なぜならそれは、彼らのバックには大陸の闇社会――中国マフィアや韓国マフィアが付いているから。
 日本市場への進出を目論む彼らは“何でもする”室井組に真っ先に目を付け、随分前から密接な関係を築いてきた。それが分かっているからこそ、黒龍会も迂闊には手出しができない。
 いくら東日本最大勢力と言われている黒龍会でも、中国マフィアや韓国マフィアを相手にすればそれ相応の代償を払わなければならないのは目に見えている。
 黙り込んだまま何かを考え込む様子の遥夏に蔵本は続ける。
「それが最近、杏子の返済が滞っているようでして……随分上の者が取り立てに出てきているとか。まだ確かな情報ではありませんが、山本(やまもと)の姿が見え隠れしているようです」
「山本が?」
 遥夏の記憶が正しければ、山本は室井組の舎弟頭を務める男で組長室井の従順な部下のうちの一人である。また、彼は金融関係を担当していたはずだ。
 確かにそれは随分と厄介な男が出てきているものだと遥夏も思う。負債の額とその返済が滞っていることを考慮すれば特に不思議はない話だが。
「まぁ、患者は診るけど、厄介ごとまでは勘弁だよ遥ちゃん。香夜ちゃんはなーんかあの子に肩入れしてる節があるしさ。少し不安なんだよね」
 相変わらず難しい顔をする遥夏に、紘務は念を押すように言った。
 それからしばらくの沈黙を経て、遥夏は小さく一つ溜息を吐く。
「……そういうことだ、蔵本。ここの責任者は事実上お前だ。余所に弊害を起こさないよう、うまく収めろ。特に紘さんのところにはな。それから……香夜にも。いいな? ホステスの一人や二人失ったところで補充はきくはずだ」
「分かりました」
 遥夏は蔵本の返事を確認すると煙草を一本取り出して銜える。しかし、不意に香夜の顔を思い出し、一度唇に挟んだそれを静かに外した。
 すると、
「あれ、何? 遥ちゃん煙草吸わないの? 調子でも悪い?」
 即座に異変に気づいた紘務は立て続けに質問を投げかける。
「別に。ちょっとね……」
「ちょっとって……心境の変化? あ、もしかして……香夜ちゃんに煙草止めろとでも言われた? 煙草吸う人は嫌いよっ、とか?」
「…………」
 案外鋭い紘務に遥夏は返事をしない。
 その反応を肯定と取ったのか、
「随分と従順だねぇ、遥ちゃん。いつもその調子だといいんだけど。そう思うでしょう? 蔵ぽん」
 紘務はニコニコと笑いながらサクッと蔵本へと話を振る。
 蔵本は一瞬何とも言い難い顔を見せるが「不夜城の次期当主があまり従順でも仕事になりませんから」と彼らしく上手く言い逃れた。
「じゃあ、遥ちゃんさぁ、せっかくだから禁煙補助剤の処方でもしようか? 最近良い物が結構出てるんだよ」
 紘務はからかう様に言ったが、やはり遥夏は特別反応をしなかった。しかし、その表情は決して固い物ではなく、どちらかと言えば穏やかでさえあった。


Karte No.2-15