Karte No.2-16

 それは香夜がマンションの玄関に入ったその時だった。
 ピロロロロ ピロロロロ………
 固定電話が家主の帰りを待っていたかの様に鳴り出す。
 携帯電話が主流になった今、この電話が鳴ることはあまりない。
 香夜が今のマンションの引っ越した際、インターネット回線と同時契約で安くなるという売り文句で契約したが、実際にはほとんど使っていない。
 今の時刻は午前一時十五分――こんな非常識な時間にこの電話が鳴るということは、近しい人間か、間違い電話か。
 香夜が慌ててリビングへ向かうと、固定電話のディスプレイには見覚えのある携帯番号が表示されていた。
「もしもし……」
『やっとつながった。香夜、お前こんな時間までどこに行っていた?』
 電話の向こうで聞こえるのは、聞き覚えのある男性の声。
 それは、兄の朝輝(ともき)だった。
 香夜よりも三歳年上の朝輝は都内で弁護士をしている。といっても、個人事務所を構えているわけではない居候弁護士というやつだ。本人に“イソ弁”の名称を使うと必ず怒って“勤務弁護士”と言い直しを要求される。それは朝輝にとっての譲れないプライドらしい。
「トモくん……こんな時間にどうしたの?」
 香夜が昔からの兄の愛称を呼びながら問いに問いを返せば、
『聞いてるのは俺だ。先に俺の質問に答えろよ』
 明らかに怒気を孕んだ返答が投げられる。
『スマートフォンにも何度もかけたんだがコールバックが来る気配もない。こんな時間まで何してた?』
「トモくん、そんな父親みたいなこと言わないでよ。大体わたしだってもういい大人なんだがら、夜も色々と予定があるの。さっきまで仕事中でスマートフォンを手元に置いてなかった、それだけよ」
 香夜は徐に鞄からスマートフォンを取り出すと着信履歴を広げる。すると案の定、朝輝からの着信がズラリと並んでいた。声には出さないが、香夜は思わず「うわぁ」っと唇を動かしてしまう。ついでにメッセージアプリも開いてみると、未読状態のメッセージが朝輝から何件か来ていた。
『香夜、お前……いつの間に仕事始めたんだ? そんな話は一言も……』
「いつまでも遊んでいられないからね。それに、仕事始めたくらいで、わざわざ忙しいトモくんに報告することもないかと思って」
『……もしかして、変な仕事じゃないだろうな?』
「看護師よ。夜勤専門の」
 朝輝の勘ぐりに対し、香夜は雪緒の時と同様適当に暈かして答える。
 この朝輝も妹思いと言おうか、心配性と言おうか、きっと本当の事を言えばその弁護士という肩書きを使って何かをしそうであるから。
 そして少しだけ、兄の勘は案外鋭いと香夜は思った。
「それで? トモくんはわたしに何の用なの? 急用だったんじゃないの?」
 香夜はそれ以上の詮索を避けようと話の筋を変える。
『あ、あぁ……別に特にコレと言った用事はないんだが、元気にしてるかと思って。しばらく連絡取ってなかったからな』
「御陰様で元気よ」
 朝輝はよくこうして香夜に連絡をくれる。
 香夜たちにはもう一人年の離れた高校生の妹がいるが、朝輝は昔から香夜の方を良く気に掛けてくれるのだ。もちろん、朝輝も香夜も高校生の妹は別格で可愛がっているが、彼ら二人に関して言えば単に年が近く、こうして社会人になってからも同じ地域で仕事をしているから自然と仲も良くなるのだろうと香夜は思っていた。
 ちなみに、若干心配性過ぎる朝輝は香夜が大学へ進学した当初一緒に住もうと持ちかけたくらいだ。もちろんその理由は妹が都会で一人暮らしをするのは不安だから。一歩間違えなくても完全なシスコンだ。
 しかしそれを香夜は丁重にお断りした。兄と住んでいればプライベートも何もあったもんじゃないというのが実際の本音であったが、色々とそれらしい理由を付けて諦めてもらった経緯がある。
『本当に元気なのか?』
「なぁに? そんなことで嘘吐いてどうするのよ。元気よ、元気」
『だってお前……あんな形で大学病院辞めたから、まだ塞ぎ込んでいるかと』
 朝輝の言葉に一瞬、香夜はその顔を歪める。
 しかし、このやりとりが電話なのをいいことに、
「わたし、図太いのだけが取り柄だから元気だってば。そんな昔のこと忘れたわ」
 香夜は声色を一切変えずに返す。
 だが、さすが兄とも言うべきか、何かを気づいたのだろう朝輝は深い溜息を吐いた。
『俺があの時、日本にさえいれば……』
 香夜が大学病院を辞職した時、朝輝は海外へ行っていた。仕事の都合で。
 だからその時、香夜は朝輝には何も話さなかった。全て帰国した後に事後報告。もちろんそれは朝輝を思ってのことだ。きっと妹思いの兄が事情を知れば、日本に飛んで帰ってきたに決まってるから。
 一方で、朝輝には未だにそれが悔やまれるようだ。
『あのさ香夜、俺もよく考えたんだがやっぱり…………』
「もう大丈夫だってば。元気だって言ってるでしょう?」
 朝輝の言いかけた言葉に一瞬にして不穏な空気を感じた香夜は、話をさせまいとするかの様に彼の言葉を遮る。
 しかし、朝輝は引かなかった。
『前にも言っただろう? こんなの間違っているって。それに、お前さえその気があれば不可能な話じゃない。だから、きちんと正式な形で裁判を……』
「お兄ちゃん、やめて」
 朝輝が何の話をしたいのかを完全に察した香夜は少し語調を強めて遮った。普段は使わない“お兄ちゃん”という呼称が、香夜の拒否する気持ち全てを物語っている。
『…………』
 それには流石の朝輝も黙り込む。
「もう……良いの。もう終わったことだから、時が経って風化していけばそれで良いの。これ以上……変な風に揉めるのはたくさん」
『香夜……』
「それがたとえ、間違っていようが、泣き寝入りと言われようが仕方がない。もうわたしは関わりたくないの。お願い……分かって、トモくん」
『…………』
 電話越しの香夜の声を、朝輝はただ黙って受け止める。
 それから短い沈黙が支配した後、
『ところでお前、今度の休みいつだ? 毎日夜勤てこともないんだろう? 暇な夜見つけて、飯でも食いに行こう』
 朝輝がそう言った。
『もちろん……香夜の嫌がる話はしない。約束する。ただ二人で久しぶりに美味しいもんでも食いに行こう。お前の好きな物、何でも奢ってやるよ』
 妹思いの兄の言葉に「トモくん……ありがとう。……ごめんね」と香夜は呟く様に答えた。そして、スケジュールを確認してまた改めて連絡を入れると朝輝に約束をして、香夜は兄からの電話を切った。





 それから数日後のこと――
 杏子は今、裏路地の物陰でぐったりと座り込んでいた。その呼吸は荒く、額には汗が見える。
「杏子ちゃん……大丈夫?」
 傍にいるのは沙那だ。
 沙那はハンカチで杏子の汗をそっと拭ってやる。
 すべての始まりは今から一時間ほど前のこと――……
 沙那がその日最後の客を送るため店の外へと出た時、数名の男が彼女に声をかけた。そんな彼らは決して紳士とは呼べない類の男たち――どちらかといえば、あまり関わりたくない人種。
 男の一人は「杏子は店にいるか?」と沙那に聞いた。その時、一瞬にして危険を感じた沙那は答えた。
「杏子は休みを取っています」
 咄嗟の嘘だった。
 その答えを聞くと、別の男がそれは本当かどうかと執拗に問いただしてきたが、沙那はそのまま適当に彼らをあしらった。
 それからすぐに店に戻った沙那は控え室へと走った。そこにまだいるはずの杏子の元へと。
 息を切らせて控え室へと飛び込めば、案の定、仕事を終えて帰り支度をする杏子の姿があった。今日も相変わらず青白いような顔をしている杏子。
 ここ最近、ずっと様子のおかしい彼女を沙那は密かに心配していた。
 杏子は元から人を頼るタイプではなく、すべてを一人で抱え込む子であったから沙那が直接声をかけたりすることはなかった。声を掛けたところで大丈夫と言われるのがオチだから。その代わりとして、沙那は彼女の様子をそっと見守っていたのだ。
 別に何の義理があるわけではないが、入店当時から杏子の面倒を見てきた沙那はどこか彼女を放っておけないところがあった。
 沙那は今し方表であった出来事を全て杏子に話した。すると、予想した通り彼女の顔色はより一層悪くなる。
「一体、どうしたの?」
 沙那は思わず聞いてしまった。だって聞かざるを得ないほど彼女が怯えたように見えたから。
 だが、杏子が答えることは無かった。沙那はそれですぐに分かった。また杏子が一人で抱え込もうとしているのだということを。
 だから沙那は言った。
「杏子ちゃん……お腹に赤ちゃんがいるよね?」


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