Karte No.2-17
沙那の言葉に杏子は押し黙った。
しかし、沙那はそれに確信を持っていたのだ。だって……それは見ていれば分かることだったから。
頻回な体調不良やうまく誤魔化して口をつけないアルコール、控え室で暇を見てはぐったりとしている姿、そして時折腹部を庇うような仕草――他人に興味のない単なる同僚でいるだけなら分からなかったであろうそれが、常に気を配っていた沙那には分かってしまったのだ。
もうこれ以上は誤魔化しきれないと踏んだのか、杏子はそれに素直に首肯した。
そして借金取りに追われていることも自ら話した。恐らく表にいるのはその取り立てだと。沙那にはそれもいずれ明らかになると思ったから。
だがもちろん、香夜に話した時と同様、杏子は沙那に助けを求めるつもりなど無かった。ただ事実を伝えた、それだけのことだ。
沙那は話を聞き終えると小さく一つ溜息を吐いた。
そして、
「自分の決めた道なんだから、自分で最後まで責任を持つことね」
静かに言い放った。
それは厳しい言葉だった。だが、当たり前のことで杏子も特に反論はない。だから、分かっていますと杏子は頷いた。
短い沈黙が辺りを支配する。杏子はそれに自然と顔を俯けてしまう。
すると、沙那の「でも」という言葉が沈黙を破った。
「ちょっとくらいなら、手伝ってあげる」
聞こえた言葉に杏子は俯けていた顔を上げる。
その時、目の前にいる沙那は笑っていた。それは、仕方ないわね、とでも言うような慈愛に満ちた笑み。彼女はそのまま杏子の手を掴んだ。
「とりあえず、今は逃げることが最優先課題……それでいいわね?」
杏子はただ呆気にとられた顔を見せるばかりだ。何が起こったのかわからないとでも言いたげに。
だがすぐに、それが沙那の優しさだと感じた。香夜が杏子に与えてくれたそれとはまた別の形の優しさ。
それをしっかりと感じ取った杏子は、最近自分の周りにはお人好しばかりだと思わずにいられなかった。
◆◆◆
沙那は控え室を出てからすぐ、ある人物の居場所を杏子に尋ねた。
それは、
「蔵本さんは?」
クラブ泉の実質的な責任者である。
蔵本はつい先ほどまで店にいた。少なくとも沙那が客を送り出しに行く前までは。
外にいた男達を見た時、沙那はすぐに店に来ていた蔵本を思い浮かべたのだ。彼に相談するのが一番手っ取り早いと。
だが、
「さっき帰りました。別のお店に行くって」
杏子の答えは沙那の期待を打ち崩す。
沙那はそれに思わず舌打ちをしたくなる。それも無理はない。蔵本がいれば絶対に杏子を助けてくれたはずだと沙那には自信があったから。
蔵本は情に厚く、時折その筋の人間とは思えないようなことがある。それ故に、沙那に限らず多くのホステスたちから頼りにされているのだ。
実際先日杏子が店で倒れた時も、たまたま出くわした彼はヒステリックに喚き散らす支配人と苛つきを隠せないママを宥め、すぐに往診を頼んでくれた。普通はそんなことしてくれやしない。自分の女なら別だが、いくら商品と言えども単なるホステスにそこまではしてくれない。余程の売り上げを持っていなければホステスなどいくらでも代用が利くモノだから。
だが、蔵本はそんな風に捨て置かないのだ。沙那が倒れた騒ぎに出くわしてから毎日クラブ泉に顔を見せるのも恐らく杏子を気遣ってのことだ。
しかしながら、いない者を頼りにしても仕方がない。
すぐに割り切った沙那はビルの裏口の更に裏口、知る人もあまり少ない通用口から杏子を連れて逃げた。
だが、男たちは未だにそこかしこをうろついていたために沙那はとりあえず物陰に隠れて時間をやり過ごすことにしたのだ。
何より、これ以上逃げ続けるには杏子の体調が悪すぎたから。最初は顔色が悪かっただけの杏子だが、動くにつれてそれは悪化していくようだった。沙那に医療的な知識は無いが、それでもお腹の子と杏子の両方を考えればこれ以上は動かさない方がいいと判断できるだけの材料があった。
こうなると、やはり蔵本が帰ってしまったことを沙那は再び悔やまざるを得ない。
しかし、一介のホステスでしかない沙那は蔵本の連絡先など知るわけがない。偶然でも起きなければ彼とは会えないのだ。向かった店の名が分かれば走っていきたいくらいだ。
沙那はとりあえず杏子を座らせて様子を見ることにした。
「病院……行く?」
沙那の問いに杏子はゆっくりと首を横に振る。
「少し……休めば、大丈夫ですから……」
口ではそう言うものの、彼女の様子は少しも大丈夫とは思えない。
その時ふと、数日前に店に来た看護師のことを沙那は思い出した。ちらりと見ただけだが、彼女は杏子と随分と親しい様子だった印象が残っている。
「そうだ杏子ちゃん、あの人……この間お店に来た看護師さん。あの人に連絡しよう? 仲良しなんでしょう?」
「駄目……香夜さんは……呼ばないで……」
「あの人、香夜さんて言うの? 彼女なら…………」
杏子は再びかぶりを振り沙那の言葉を遮った。
杏子には分かっていた。先日、香夜が教えてくれたクリニックの夜間専門番号――そこにかければ彼女はきっと今すぐにでも飛んできてくれるということを。そして、だからこそ呼んでは駄目なのだと。
思い出すのは助けてくれると言ったあの時の香夜。杏子は確かにそれに縋りたいと思ってしまった。
だが、今はまだそうするべき時ではないのだ。
「沙那さん……一つだけお願いが……あります」
「何?」
「これから先……どうしようも無くなった時、きっとわたしは……香夜さんを呼びます。だからその時、わたしが動けなかったら……代わりに香夜さんを呼んでもらえませんか?」
そう……香夜はあくまでも最後の砦――どうにもならなくなった時だけ頼るべき人なのだと杏子は自分の中で割り切っていたのだ。
そうしなければ、あのお人好しな女性を際限なく引きずり込んでしまうと。
こんな自分に手を差し伸べてくれた人だからこそ、杏子はそんなことをしたくなかったのだ。
「今はその時じゃないってこと?」
沙那の問いに、杏子は瞼を閉じることで肯定の意を伝えた。
だがそこで杏子は意識を手放した。
「杏子ちゃん!? ちょっとあなた……」
その場に崩れる様に倒れ込んだ杏子の体を沙那は抱き留める。
一瞬、焦った沙那は嫌な汗をかくが、よく見れば杏子は穏やかな呼吸で眠っているだけの様だった。
沙那はそれからしばらく、外をうろつく男達と杏子の状態を交互に確認した。
◆◆◆
どれほど経った頃だろうか……
ようやく男達の姿が見えなくなった頃、沙那は徐に自分のスマートフォンを取り出した。
アドレス帳で呼び出すのはとある人物のデータ。表示されたその名を見て沙那は一瞬躊躇ったが、今はそんな場合ではないと意を決して通話ボタンを押す。
コール音一回……
「はい」
男性が応答した。もちろんそれは沙那の目的の人物。
「わたしよ。……ねぇ、あなた、確かわたしの言うことだったら何でも聞くって言ったわよね?」
『はい。確かに申し上げました。どのようなご用でしょうか?』
「今すぐ車で迎えに来て欲しいの。病人を一人連れてるわ。場所は……」
それは沙那が言いかけた時だった。
『クラブ泉の裏手、川田ビル傍の裏路地ですか』
男性はそう言った。沙那が何も伝えていないのにも関わらず。
それに沙那はフンと鼻を鳴らし、だから電話をしたくなかったのだと思う。
「相変わらずの情報網ね。監視してる、って言った方が正解? だったら今すぐそこに来て。……別にあなたが来る必要はないから、誰か人を寄越してくれればいいわ。念のため、武道の腕が立つ人」
沙那は必要事項だけ伝えると相手の返事を待たずに電話を切った。
それから二十分も経たず、一台の黒塗りの車が迎えに来た。開いたドアは運転席ではなく助手席。それは先ほどの電話相手だった。
「あなたが来る必要はないって言ったけど?」
「一応責任がありますので。それに、私にお電話をいただいて光栄です」
男性は柔らかい表情で笑って見せたが、沙那がそれに答えることはなかった。
「ご要望の者は運転手としてつれて参りましたが、どうされますか?」
続けて投げられた問いに、沙那は少し周囲を伺い「大丈夫そう」とだけ答えた。沙那はもし万が一を考えて人選をしたが、杏子を追う男達の姿はもうどこにも見えなかった。
そのまま沙那は杏子を抱える様に車に乗せ、自身の自宅マンションへ向かう様に指示を出した。杏子の家に帰したところで、そこは既に男達の手が回っているだろうと予測してのことだった。