Karte No.2-18
「ねぇ、香夜ちゃん。悪いんだけど、今日少し早く出勤してくれない?」
それはある日のこと。
お昼を少し過ぎた頃、香夜の元へ紘務からそんな連絡が入った。
特に用事もなかった香夜はそのリクエスト通りに一時間少し前倒しで出勤した。
そして着替え済ませていつもと同じように院長室へと向かと、香夜は突然紘務からリボンの掛かった大きな袋を渡されたのだ。
「なんですか、これ?」
香夜は受け取りながら紘務に問う。
「今すぐこれに着替えてきてくれない?」
「……変なナース服は着ませんよ?」
前科のある紘務に香夜は訝しそうな顔を向ける。
「あぁ、香夜ちゃんそっちの方が良い? それならそうと……」
「だから、着ませんて。一体何なんですか?」
「残念ながらただの洋服。ワンピース。実は、今日はちょっとドレスコードのあるところで仕事を頼まれててね。そのために着替えて欲しいんだ。それで、もうすぐ迎えが来るからパパッと着替えちゃって」
紘務はそう言うと今ひとつ状況の理解できない香夜の体を反転させ、その背を押して「早く、早く」と追い立てる。
結局、香夜は紘務の言う通りにせざるを得なくなり元来た更衣室へ戻った。
そのまま言われた通り箱を開け袖を通してみれば、それは落ち着いたデザインの黒いワンピースだった。ご丁寧にも凝ったデザインのイヤリングとネックレス、それに靴と鞄まで入っていた。
全てを身につけてみると、ちょっとした結婚式の二次会くらいには行けそうな格好になった。
着替えを済ませて院長室へ再び戻ると、
「お! 綺麗だねぇ~」
紘務が満面の笑みで出迎えてくれた。そんな彼も、いつのまにやら見たこともないスリーピーススーツ姿になっている。
いつも見ているのは、ケーシーの上に白衣か、スクラブか、はたまたその上に白衣か――いずれにしても、どこからどう見ても医療職という格好だけだ。
こうしてみると、紘務はその辺のホストに負けないくらいの容姿を持っていると香夜は改めて実感する。ただそれは、その不可解な言動さえなければ、の話だが。
紘務の服装を見ながら、どうやら本当にそんな仕事らしいと香夜も納得する。変わった仕事もあるものだと思うが、ここの仕事は基本的に“変”だから最近はある程度のことでは香夜も驚かない。
すると、紘務が徐に香夜の髪に手を伸ばして仕事用に束ねてあったそれを解いた。
「せっかくだから髪は下ろした方が良いかな。あと、色つきのリップか口紅持ってない? それも軽く塗っていこう。それにしても、香夜ちゃんは色が白くて目鼻立ちもはっきりしてるから黒が似合うね」
紘務は満足そうな笑みを浮かべ「いつにも増して美人だよ」と言い添える。
そんな台詞を言われれば、香夜は紘務がますますホストに見えてくる。
「じゃあ、もう下にお迎えの車が来てるからそれに乗って行って」
「え? だって、院長も一緒に行かれるんですよね?」
「うん。でも、俺はちょっと野暮用をこなしてから行くから、すぐに後を追うよ」
「じゃあ、往診用の鞄を。それと、わたし向こうに着いてからどうしたら……」
不安そうな表情を見せる香夜に、紘務は相変わらずの笑顔で彼女の肩をポンポンと叩いてやる。
「鞄は俺が持って行くから大丈夫。それに、着いたあとは迎えに来てる運転手が全て案内してくれるから心配しないで」
紘務はそれだけ言うと「じゃあまたあとで」と添えて香夜を院長室から送り出した。
◆◆◆
香夜がクリニックの一階に下りて通用口を出れば、そこには本当に車が一台止まっていた。
それは黒塗りの高級外車。綺麗に手入れをされているそれは、見るからにグレードの高いものだ。
一体どんな人が迎えに来たのかと香夜が構えていると「お待ちしておりました」と言って運転席から下りてきたのは見たことのある顔だった。
「あ……えと……咲村さん?」
香夜は自らの記憶を頼りにその名を呼んだ。
ただ、それに自信はなかった。だって前回会った彼は、言い方は悪いがもっと粗暴でまず敬語は使っていなかった。それに支度だって前回は着乱れたスーツだったのに、今日は黒のシックなスーツをビシッと着こなしており、胸元には地味目のネクタイも締められている。それ故に、彼の顔に見覚えはあっても香夜は随分と違った印象を持つ。
が、
「覚えていてくださったんですね」
相手のその一言で、香夜の記憶が間違っていなかったと証明された。
「では……とりあえず、行きましょうか」
そう言って、咲村は後部座席のドアを開けて香夜を中へと誘う。
香夜を乗せるとすぐ、咲村も運転席へと乗り込み「出発しますね」という彼の声と共に車は静かに発進した。
「あの……今夜はなぜ、咲村さんがお迎えに?」
「まぁ、それは色々ありまして……あまり気になさらないでください。俺のことは単なる運転手と思ってくだされば結構です」
どうやら都合の悪い事がある様子で咲村は言葉を濁す。
だから香夜は、
「そういえば、この前の怪我はもう良くなりました? 皆さんもお元気に?」
他の話題へと移した。
「えぇ、御陰様で自分も彼らも順調に。まだ無理はできませんがね。松平さんもお元気ですよ。……その節は香夜さんにお世話になりました」
「いえ、お礼は院長に言ってください。……ところで、今日はどちらへ向かっているんですか?」
「えっと……それはですね。あの……決して変な場所へは行きませんから、どうか勘弁してください」
今度のそれもあまり触れられたくない様なオーラを咲村が醸し出す。
一体何だというのだろうか。
だが、あまり執拗に尋ねるのも可哀想なので香夜はそれ以上を尋ねない。行き先は非常に気になるが、今は咲村を信用するしかないということだ。それに、後に紘務も合流するから大丈夫だろうと香夜は考える。
それでも手持ちぶさたなので、
「なんだか……咲村さん、今日は随分と丁寧な話し方をされるんですね。この間とは別人みたい」
香夜はふと気になったことを尋ねてみた。
「え? あ……まぁ、それも色々と事情がありまして……」
すると、またもや咲村は明らかに焦る。
「事情が?」
「はぁ……それは……ですね……」
「どんな事情ですか?」
「え、と……まぁ端的に言えば、香夜さんは社長の大切な女性ですから。我々のような下の者にとっては、それ相応に接しなければいけないということで……ご理解ください」
咲村から返ってきた答えに、香夜は明らかに眉間に皺を寄せる。
引っかかったのは――社長の大切な女性――その表現。
「咲村さん……それ、誤解ですよ」
「は、はぁ……誤解?」
咲村がふとルームミラーを覗けば、そこには満面の笑みを浮かべた香夜が映っている。
すると、
「はい、誤解です。だって、わたしはあんな変態男とはなんでもありませんから」
香夜は笑顔を保ったままそう言った。
だが、その言葉は明らかに怒気を孕んでいて……
「あ……その……す、すみませんでした!!」
咲村は思わず謝る。そして謝ったあとで、香夜は相変わらず変わっている女性だとしみじみ思う。
初めて会った日も度肝を抜く様なことをしてくれたが、今だってあの泣く子も黙る不夜城の次期当主を平然と変態呼ばわりする香夜に、やはりこの人は何か違うと咲村は思わざるを得なかった。
それから二人は特に会話を交わすこともなく車は進んでいった。
◆◆◆
「香夜さん……着きました。こちらです」
車を止めた咲村がドアを開けた先――そこは一軒の料亭だった。
それは香夜にとって予想外の場所だった。香夜的にはドレスコードと聞いた時点で、どこかのホテルで開かれているパーティーと勝手に想像していたのだがそうではない様だ。
ここは鹿威しや遣り水の音が静かに聞こえてくる様な純和風の料亭。車が横付けにされた入り口など、何かの撮影で使われていてもおかしくないほどの作りだ。それから想像してもここが所謂高級料亭であることを香夜は理解する。某格付けガイドブックで星がいくつかついていても不思議ではない。
ここでドレスコードと言われると、今来ているワンピースドレスよりも、着物の方が良かったのではないかとさえ思えてくる。
咲村から促されるまま車から降りれば、そこには綺麗な和服姿の女性が数名、深々とお辞儀をしている。先頭に立つ女性は、着物が他の者と違うことからして店の女将だろうか。
咲村はその女性と二、三言交わすと「それでは、俺はここで失礼します」と言い残して、まるで逃げる様に帰ってしまった。
その時点で香夜は漠然とした不安を覚え始める。
そして、
「坂下香夜様でいらっしゃいますね? お連れ様がお待ちでございますよ」
女将と思しき女性がニコリと笑いかけた瞬間……
香夜は自分には院長以外の連れなんていないと思い、今すぐ無性に帰りたい衝動に駆られた。