Karte No.2-22
香夜は元来たルートをゆっくりと戻る。イヤリングが落ちていないかどうか確かめながら。
だが、それはどこにも落ちていなかった。
それはもう少しでバーに着いてしまうという時のこと。
「失礼ですが……」
突然聞こえた声に香夜が視線を上げれば、そこには見知らぬ男性が立っていた。
「もしかしてこれをお探しではないですか?」
年の頃は三十代中頃だろうか、やや神経質そうな顔立ちをし、上質なスーツを身に纏っている男性だった。
彼が差し出してくれた掌を見れば、そこには確かに香夜が落としたはずのイヤリングが乗っていた。
「すみません……。そうです、わたしのです」
男性は香夜の言葉を聞くと、柔らかく微笑み「どうぞ」と香夜にそれを渡してくれた。
「ご親切にありがとうございます。お陰様で助かりました」
香夜は丁寧にお辞儀をして礼を言う。
その時だった。
「香夜……」
イヤリングを拾ってくれた男性の背後で遥夏の声がした。
それに男性は振り返り、遥夏も彼を視界に納める。
瞬間、互いの表情が驚いたようにわずかに強ったが香夜はそれに気づかなかった。
「これは、黒衣さんでしたか……」
先に言葉を発したのは男性だった。
「どうも……お久しぶりです。随分変わったところでお会いしましたね」
遥夏もすぐに応対をする。
どうやら二人が知り合いらしいということを香夜は感じ取る。仕事上の付き合いなのか、それ程親しいわけではないようだとも。
「こちらは……お連れの女性ですか?」
問われたことに、遥夏は答えなかった。
その代わりに香夜の元まで歩み進め、彼女の背を反転させるように押す。
「すみません。今はプライベートですからこれで失礼させてもらいます。……あなたも同じでしょう?」
遥夏がそう言えば、男性はそれ以上食い下がることもせずに「では、また」と言って、その場を去っていった。
遥夏と香夜もまた、男性とは反対方向へと歩みを進める。
「あの男と何か話したのか?」
フロント階へと向かうエレベーターに乗り込んだ瞬間、遥夏はそう尋ねた。
「特に何も……わたしが落としたイヤリングを拾ってもらっただけ。探してたら声をかけられたの。受け取ってお礼を言っただけ。そこへちょうど遥夏が来た」
香夜が答えれば遥夏は「そうか」と短く返しただけだった。
その時、どこか冴えない遥夏の表情が香夜は少し気になっていた。
香夜は単なる興味として「さっきの人は?」と尋ねたが、遥夏はそれに答えてはくれなかった。「お前は知らなくていい」とそれだけしか返してくれなかった。
◆◆◆
その後、迎えに来た車で遥夏は香夜を自宅マンションの前まで送った。
香夜の背がマンションのエントランスに吸い込まれたのを見届けると、遥夏は運転席の咲村に車を出すよう指示する。
遥夏の隣には香夜を降ろした後に助手席から乗り換えた神崎がいる。
やがて車が繁華街の車列に加わった頃、
「室井がいた」
遥夏は静かにそう一言告げた。
「あのホテルにですか?」
すぐに状況を察したであろう神崎は問う。
「ああ、そうだ。運悪く、ばったり正面衝突だ」
そう、先程会った男性――香夜のイヤリングを拾ったその男性こそが四代目室井組の組長、室井広世だったのだ。
「そうでしたか……あちらもプライベートでしょうかね。……ここのところ、クラブ泉の件でちらほら名前を聞くと思ったら、タイムリーに会ったわけですね。香夜さんも一緒に?」
神崎の問いに遥夏は首肯する。
「というより、香夜が室井と先に会った。香夜が落としたイヤリングを室井が偶然拾ったらしい。まぁ……ただそれだけで特に会話はなかったと言っていたがな」
遥夏はそのまま黙って窓から流れる外の景色を眺める。
長い様で短い沈黙を経て、神崎は「他にも何かございましたか?」と尋ねた。
しかし、遥夏は視線を一度神崎へと向けただけで何も話そうとはしない。
「女性と食事に出かけて、こんなに早くお帰りになるのは珍しいので気になりましてね。てっきり、明朝のお帰りと思っておりましたもので」
「特に理由はない。いつもとやり方を変えただけだ……」
「一筋縄では行かないお嬢さんということですか?」
クスリと笑みさえ零す神崎の問いに遥夏が答えることは無かった。
「それでは、別にご用意致しましょうか?」
神崎は重ねて問う。今度のそれは暗に今晩の閨の相手を勧める言葉。
それに対し遥夏は「必要ない」と短く答えると再び視線を窓の外へと向ける。
夜の闇の中、思い浮かべるのは香夜の顔。
それはまるで泣きそうにも見えたあの時の笑顔。今まで見たことのないようなそれが遥夏には酷く印象的だった。
その後で遥夏を貪るように求めたキス――香夜は積極的に舌を絡め、遥夏を執拗に挑発してきた。
だが……
その心がどこか別の場所にあることに遥夏は気づいていた。キスに没頭することで、必死に何かから目を背けようとする香夜に。
遥夏はそれを特に尋ねるつもりはなかった。だがその代わりに、その挑発に乗った振りをした。
続いて脳裏に思い出されるのは、
『……駄目よ。やめた方がいい。こんな女なんか、ね……』
そう言った時の香夜の細い背。
その時に顔を見た訳じゃない。それなのに、遥夏は彼女が泣いている様な気がした。
いつも清々しいまでに強くしなやかなのに、その時の香夜の背は思わず抱き寄せたくなるほどに心許なくて……。
だが遥夏がそれを抱き寄せることは叶わなかった。
今夜、香夜へ向けた誘い文句通り本当はあのホテルに部屋がとってあった。そのまま香夜を連れて行くつもりで。
そしたら神崎の言う通り、帰りは明日の朝以降になっていただろう。
しかし、あんな香夜を見たら遥夏はそうできなかったのだ。なんだかそうしてはいけないような気さえして、遥夏ともあろう男が大人しく身を引いてしまった。
(なんで、あんな顔……したんだろうな)
遥夏は釈然としない思いを抱えたまま小さく一つ溜息を吐く。
そんな遥夏を、隣に座る神崎は眼鏡の奥から静観していた。
それから数日後の事だった。
香夜がその日の仕事を終えて院内の鍵を閉めて回っていると、コンコンと通用口のガラスを叩く音が聞こえた。
驚いて通用口を開けるとそこには一人の女性が立っている。
「夜遅くにすみません……ここがあおやま太陽クリニックですか?」
街頭に照らし出される彼女は薄手のパーカーを羽織っているが、その下は煌びやかな衣装を纏っていた。
衣装だけが目に飛び込んできた瞬間、香夜は杏子かと思ったがすぐに彼女ではないと分かる。第一、杏子ならそんなことは聞かないし、今いる女性は杏子よりも身長が大きく香夜と似たか寄ったかの背格好だ。
「そうですけど、でも今日はもう終わりですよ?」
時刻は既に一時五分前を差している。今晩はもう店終いだ、と紘務に言われて香夜も鍵締めに回っていたところである。
どうしてもの急患ならばまだ診てくれるだろうが……そんな風に香夜が考え倦ねている時だった。
「あなた……“香夜さん”ですか?」
「……え?」
突然投げかけられた質問に香夜は思わず聞き直す。
「そうですよね? 違うんですか?」
明確な返事を寄越さない香夜に対し、女性は焦燥感に駆られた表情で再び尋ねる。
だが、香夜は初対面のはずの彼女が一体何でそんなことを尋ねるのか、そして名前まで知っているのか解せなかった。
「あなたが……香夜さんでしょう!?」
答えを渋っている香夜に女性はさらに焦りを見せる。
いつの間にか彼女の視線は香夜の胸に付けられているネームプレートに向けられていた。
そのあまりの勢いに気圧されるようにして、
「わたしの名前は確かに香夜ですけど……でも……」
香夜は訝しみながらもそう答える。
すると、女性は香夜の手を思い切り掴んだ。
「お願い、香夜さん。わたしと一緒に来てください!! 早く!」
そして、有無を言わせずといった具合で彼女は歩き出す。
「え? な、何!? ちょっと待って……一体…………」
驚き抵抗する香夜に対し、女性は一瞬だけ足を止めて香夜を振り返る。その表情は今まで以上に焦燥感に溢れていて、切羽詰まったものであった。
「わたし……クラブ泉の沙那って言います。杏子ちゃん……杏子ちゃんが……あなたを呼んで欲しいって待ってるんです」
香夜の表情が一瞬で険しくなった。