Karte No.2-21
そのまましばらく待っても遥夏は来なかったので、香夜は徐に席を立ち窓辺へと向かう。
そこは大きな一枚ガラスの窓で、まるで自分が空中散歩をしているかの如く都会の夜景が見渡せる。
夜空の星の様に瞬くネオン――……
その時、香夜はふと以前別の場所で見た夜景を脳内でオーバーラップさせていた。
今でもはっきりと覚えているその情景……
あの時もとあるホテルの展望フロアだった。そこは都会の喧噪が嘘の様に静かな空間で、聞こえるのはボリュームの抑えられたクラッシック音楽。そして、眼下に広がるのは今と同じ美し過ぎるほどの夜景。
綺麗に着飾って美味しい料理を食べ、お酒を飲んで、その後で香夜はそこに立っていた。
あの時、隣にいたのは…………
「――――っ」
一瞬、香夜は得も言われぬ立ちくらみを覚えて眉間を押さえる。
その時だった。
「酔ったか?」
声と共に体を優しく支えられる。
いつの間にか戻った遥夏がそこにはいた。
「少しね……飲み過ぎたかな」
「水を用意させるか?」
香夜はそれに首を横に振る。
そして、ただその背を遥夏に預けていた。
少し寒いくらいの空調で冷えた体が、遥夏の温もりで温められる――それが今の香夜には妙に心地よかった。先程まで脳裏を支配していた記憶の断片を全て消し去ってくれるようで……
「急に大人しくなってどうした?」
「遥夏が帰ってこないから……ただ、夜景を見ていただけよ。綺麗だな、と思って。あまりに綺麗で、ここから飛び込みたくなっちゃう……」
「随分と物騒だな」
静かな沈黙が辺りを包み込む。
その間も、香夜はずっとその身を遥夏に預けていた。
そして、いつの間にか香夜を抱きしめるようにその腹部に回された遥夏の手。香夜はその手に自らのそれをそっと重ねる。
「どうした? 叩き払うんじゃないのか?」
耳に響く声に香夜がゆっくりと振り返れば、目と鼻の先にある遥夏の双眸に捕まる。
この男の顔を、この距離感で最近よく見ると香夜は思う。
「そんな物欲しそうな顔で見るなよ」
遥夏は冗談めかして言ったが、香夜がそれに答えることはなかった。
ただ彼女の黒曜石の様な瞳が遥夏へ向けられるのみ――……
それから、二人の唇がゆっくりと重なるのに大して時間はいらなかった。それはまるで目に見えない何かで引き合うかの様にごく自然に重なる。
ただ触れるだけの刹那のキス――それから離れると「あ……」と香夜が小さく声を漏らした。
「何だ?」
「煙草……」
香夜の言葉に遥夏は反応する様にフッと笑う。
だから香夜は「止めたの?」と尋ねた。
この間とは異なるキスの味――思い返してみれば、今日は一緒にいても遥夏の煙草の香りはそれ程気にならなかった。今、こうしていても言われなければ気づかないほどに。それに、吸っている姿も見ていない。
「さすがにそれは無理。少し止めただけだ。だってお前、嫌だって言ったろう?」
遥夏はそう言って再び笑って見せた。
「わたしの……ため?」
「もちろん」
遥夏の即答に今度は香夜が笑う。
「馬鹿ね……」
「なんで?」
「わたしなんかのために……そんなこと、しなくていいのに」
そう自分で言った瞬間、香夜の脳裏にはある言葉が引き出される。
そのフレーズは……
『オ前ナンカ……』
酷く冷たい声。知っている人の声。それも複数の――……
香夜の表情は無意識にのうちに強ばる。
その時、
「なんか、じゃない……お前だから、さ」
遥夏の声が香夜の耳に響いた。
香夜はそれに一瞬驚いた様な顔を見せるが、すぐに笑ったてみせた。しかし、それは確かに笑顔のはずなのに、まるで今にも泣きそうでもあって…………
今度は遥夏がその表情に驚いたくらいだ。
「……なによ、俺様自己中のくせに……」
香夜は何かを誤魔化すように少し前と同じセリフを口にする。だが、今度のそれは覇気がない。
「どこか、調子でも悪いのか?」
「別に……少し、お酒に酔っただけよ。酔った女は……嫌い?」
言いながら香夜はその人差し指で遥夏の唇をそっとなぞる。
遥夏はそれに答えるようにその指を甘噛みすると、そのまま再び香夜の唇を捕らえた。
今度は先ほどとは異なる、深く濃厚なキス――貪るようなキスだった。
今度も、香夜は拒否することなくそれを受け入れる。
それは香夜にとって以前の様に不快なものではなくて、どちらかと言えば心地よくさえあった。だから気づいた時には、香夜は自ら遥夏の舌を絡め取り吸い上げた。まるで誘いかけるかのように。
それを据え膳と言わぬばかりに遥夏も香夜を貪る。
「んっ……ふ…………」
静かな空間に響くのは香夜の甘い呻き。そして互いを求める淫靡な水音。
香夜の体を支える遥夏の手には自然と力が入り、そこに重ねられる香夜のそれにも力が入る。
やがて長いキスを終えると
「今日は珍しく、誘っているのか?」
遥夏はクスリと笑った。それは獲物を捕らえた肉食獣の様な目。
「……こんな女に誘われたいの?」
「もちろん。最初からお前が良いって言ってるだろう? このまま部屋に誘っても?」
「男が女に服を贈るのは、それを脱がせるため……そういうこと?」
香夜は今身に纏っているワンピースの裾をそっと掴む。
「そういうことだ」
遥夏がそう返事をすれば、香夜は答える代わりに彼の腕の中からするりと抜けた。
遥夏が視線だけでその背を追えば、
「わたしってそんなに物珍しい? 遥夏がわたしに興味を持つのは、こういう女が今まで遥夏の周りにはいなかったから……違う? きっと、すぐに飽きるわ」
香夜は振り向かずに言った。
そして更に背を向けたまま言葉を重ねる。
「……駄目よ。やめた方がいい。こんな女なんか、ね……」
含みのある言い方をして、香夜はそのまま「ちょっとごめんなさい」と告げてその場を出て行った。
遥夏は何かを考える様にただ黙ってその背を見送った。
◆◆◆
ホテルフロアのレストルーム――
大きな鏡の前に立った香夜は中に写る自分を見ていた。
遥夏の元を去ってから、香夜はここに向かった。本当はバーの内部にあるレストルームでも事足りたが少し時間を取りたかったのだ。
鏡の中の香夜――彼女の頬はアルコールのせいか薄く色づいている。そして同様に口紅のせいだけでなく赤く色づいているのは、唇。
香夜はその唇に触れ、不意に先ほどまでの遥夏とのキスを思い出す。
お互い貪るように交わしたキス。
あの時、香夜はそれに没頭していた。
だが、それは決して遥夏や雰囲気に陶酔していたわけではない。頭を真っ白にする手段としてそれを選んだだけ。
言うなれば……単に遥夏を利用しただけ。
(なにをやっているんだろう……わたしは)
今日はなんだか調子の狂う日だ――そんな風に思いながら香夜が自身の唇を噛みしめれば、鼻に抜けるのは芳醇なスコッチウィスキーの香り。遥夏が飲んでいた酒だ。この間の煙草の残り香とは異なる味。
それを契機に香夜の中で思い出されるのは、煙草の味がするキス。
だが、その相手は……遥夏ではなく別の男。遥夏よりももっと苦みの強い煙草を吸っていた男とのキス。
彼を思い出せば、無意識のうちに続けて引きずり出される記憶がある。
嫌だ……と思った時にはもはや抗いようもなく、香夜の脳裏にはおぞましい映像がスライドショーのように流れる。
ずらりと並ぶ人々。
その前に一人立たされる香夜。
向けられるのは冷たい視線の数々。
そして浴びせられるのは謂われない詰問と叱責。
それを何とか受け止め、香夜は必死で真実を訴える。
しかし――
誰も聞く気はない、決して受け入れては貰えない香夜の言葉。
そんな彼女に最後に突きつけられたのは……
何とも非情な結論。
それはたった数ヶ月前のこと。忘れたくても忘れられない、死んだ方がマシだとさえ思った、あの地獄のような日々のこと――……
そこで、香夜は目の前の鏡の中にいる顔面蒼白の自分に気づいた。
それは死人の様な顔色。何かに怯えるような瞳。わずかに震える唇…………
「酷い顔……」
香夜はまるでその顔をかき消すように鏡をこする。
その時、香夜はイヤリングが片方無いことに気づいた。
落としてしまったのかとすぐに辺りを見回すが、どうやらここにはない。
バーに入る時まではあったことを覚えている。落としたとすれば、バーの中かここに来るまでの間だ。
香夜は気分を切り替えるかの様にひとつ大きな息を吐き、レストルームを出た。