Karte No.2-20
遥夏と香夜を乗せた車は、今度は都心にあるホテルへと着いた。
目的地は最上階のバー。これもまた普通なら敷居が高くて寄りつかない様な店である。そこで通されたのは、都心の夜景を窓から一望できるスペース。
香夜は本気でどこぞの御曹司とデートでもしてる気分になってくる。まぁ、それもあながち間違ってはいないのだが。
「さっきの料亭もここも……シュヴァルツレーヴェが関わっているお店なの?」
香夜がそんな問いを投げかけたのは、二杯目のカクテルが運ばれてきた後のこと。
「少しは俺に興味が出てきたか?」
「別に。ただ気になっただけ」
相変わらず素っ気のない香夜の返事に遥夏はフッと笑みを零す。
「残念ながら、どっちもうちの系列じゃない。馴染み客として利用しているだけだ。自分の店には仕事の用事がなければなるべく行かないことにしてる。プライベートで上が行けば、働く方もやりにくいだろう」
遥夏はそこで一度言葉を切る。
「それに、店で働いている者たちは上の家業を知らない者も多い。知らなければ知らないままの方が幸せってこともあるからな」
遥夏が言葉を終えると、香夜は思わずクスリと笑ってしまった。
「何がおかしい?」
遥夏は尋ねるが、香夜は笑うだけで答えない。
遥夏がそれにわずかばかり眉根を寄せる。困ったような、不機嫌そうなそんな顔。
だが、香夜は笑いを堪えられなかった。
だっておかしかったのだ。こんな“世界は自分中心”みたいな人間が、他者を気遣う様なセリフをさらりと口にしたのだから。香夜にとっては意外も意外だった。
「遥夏も人のことを気遣うことがあるのね……いっつも自分勝手なクセに。ちゃんと社会人らしいところもあるんだ」
香夜は何とかそう言いながらも、つい語尾が笑ってしまう。お酒が入っているせいもあるのだろうが、妙に笑いのツボに入ってしまった様だ。
「随分失礼な物言いだな」
遥夏は不服そうに溜息を吐く。
「だって、あなたは俺様自己中でしょう。こうして女一人を自分好みに飾り立てて、食事の相手をさせるくらいには」
香夜はからかうように自分の着けているネックレスに指を掛け、遥夏に見せる。これがその証拠でしょうとでも言いたげに。
「プライベートとパブリックは別だろう。俺も一応は会社を仕切ってる経営者だ。組織を束ね上げるには上から下まで全体を見回せなければやっていけない」
その時、いつになく真剣な表情で語り始めた遥夏――そんな彼に対し、香夜は徐々に笑いを収束させてその耳を傾ける。
「ただトップの席に黙って座っているならそれ程楽なことはない。優秀なスタッフさえいればそれで全てが回っていくこともある。だからトップはお飾りでいい……そんな組織は腐るほどあるけどな。でも、それだと知らないうちに綻びが出て、気づいた時には崩壊寸前なんてのはよくあることだ。そんな馬鹿げた真似だけは御免だよ」
「それは会社だけでなく、黒衣の家業もってこと?」
いくら区切られたスペースといえども周囲を気にしてか、香夜はあえて暈かした表現を使う。
遥夏はそれに「もちろん」と答えた。
「どちらであっても組織を維持拡大するなら、尚更お飾りでいるわけにはいかない。その組織が大きければ大きいほどな。だからトップとして自分にできる限りのことはするつもりだし、これまで俺はそうしてきたつもりだ」
「だったら、遥夏にはその才能があるのね」
「才能が?」
遥夏は僅かに眉根を寄せる。
「そう、才能。だって、世襲だけでトップの席を得た人間なら組織を維持さえできないわ。遥夏の言う様にいずれ破綻する。でも例え世襲だとしても、その人に才能が備わっていればその組織は維持だけでなく拡大さえ可能。もちろん、その組織が大きいほど相応の努力も必要だろうけど、ある程度は才能が必要……そういうことでしょう?」
別に香夜は遥夏を褒めるつもりもお世辞を言うつもりもなかった。
実際、素直な気持ちとしてそう思ったのだ。
遥夏という男を見ていると、時々馬鹿じゃないかと思うことも確かにあるが、それでも組織の上に立つ資質が彼にはあるのだろうと香夜は思っていた。そうでなければ、今言った様に会社から組からいくつもの組織を束ね上げられる訳がない。
それに、シュヴァルツレーヴェは遥夏が創った会社だと香夜は紘務から聞いたことがある。これまで、単に黒龍会の息が掛かっているというだけで個別の営業形態であった飲食店や金融業等を、一つのグループとしての経営体制に成し遂げたのだと。世襲の席だけでなく、新たに創業をしてある程度まで立ち上げるというのはお坊ちゃんのお遊びで簡単にできることではないはずだ。例え、優秀な部下が付いていたとしても。
それを今、香夜は改めて見せつけられた気分だった。
その時、一方で遥夏はただ満足そうに香夜を見つめていた。
今この瞬間、彼自身も香夜がお世辞を述べているのではないと確信があったから。
経営者としての遥夏を褒め立てる文句――それを言う女は今までにも確かにいた。だがそれは、あくまでも体裁を整えるためだけの言葉。遥夏に媚びるための手段の一つでしかなかった。
だが香夜のそれはそんな腐った言葉とは異なる。常日頃、歯に衣着せぬ彼女であるからこそその信用性も高いのだ。
それから短い沈黙を経て、
「お前は俺が束ねるその“組織”が何であろうと、軽蔑や否定はしないんだな」
遥夏はそう言った。
「特別否定をしようとは思わない……それだけよ」
遥夏の言葉に香夜は自らの思いを即答する。
すると、
「それでも、普通は俺たちの様な職種を嫌うだろう?」
遥夏は更に問いかけた。
「だから否定しないだけで、誰も肯定するとは言ってないわ。……人には誰でも理由がある。そういう組織に属する人全てが悪事を働いてる訳じゃない。致し方のない理由でそこに属してる人もいるでしょう? なのに、ただ悪事に手を染める人の割合が多いという理由だけで、集団全てを悪いモノとして見なすのは偏見だと思うから」
香夜は「一種の差別かもしれないわね」と添えて一度言葉を切る。
そういった組織に属さずとも、悪事を働く人間は山ほどいる。組織の人間の方が余程マシだと言わしめる様な極悪非道な人間だっているくらいだ。
香夜はカクテルに浮かぶチェリーを指で突くと再び言葉を続けた。
「綺麗事を言うつもりはないけれど、そういう組織は世間の必要悪みたいな位置づけもあるんじゃないの? 遥夏達のような仕事があって困る人もいれば、無ければ困る人もいる……世の中ってそいうものでしょう。だから、全てを否定をする気はないわ」
もちろん、香夜はヤクザというものを肯定する気もない。
だがその昔、弱きを助け強きを挫く侠客を極めていた人々を極道者と称したことを考えれば、全てを悪とするには少しばかり抵抗を感じたのだ。きっと未だもって、昔気質の侠客の様な者たちも多くいるはずだから。
少なくとも香夜はそう思っていた。そして「でも、ひとつだけ……」と彼女は言葉を重ねる。
「遥夏がもし、自分の力をひけらかして人様を傷つけるためにその世界にいて、力を振りかざしているのだとしたら、悪いけどわたしは否定どころじゃなく軽蔑するわ」
しっかりと言いきった香夜に、遥夏はただ目を据えていた。そしてその表情にはわずかに笑みが乗せられている。
「お前らしい意見だな」
そう遥夏が感想を述べた時だった。
彼はジャケットの胸ポケットから突然スマートフォンを取り出す。どうやら、どこからか電話が掛かってきた様だ。
遥夏はディスプレイで発信元を確認すると一瞬その顔を顰めて「……悪い、香夜。仕事の電話だ」とだけ言い残してすぐに席を立って行った。
そんな遥夏の背をただ見送りながら、香夜は一つ小さく息を漏らす。
「一応、真面目な話もできるんじゃない……」
見えなくなった背中に呟くのはそんな言葉。
いつもがいつもだからこそ、香夜としては少し調子が狂う。だからつい色々と喋ってしまった。
先ほどまでここにいた遥夏は、いつもとは違う――仕事をする男の顔だった。会社や組をまとめ上げるトップとしてのカリスマ性を確かにその身に纏った男。
香夜は何だか遥夏の意外な一面を見た気分だった。
(なによ……調子が狂うじゃない)
香夜は残りのカクテルを勢いよく煽った。