Karte No.2-23
沙那はそのまま、香夜をクリニックのすぐ傍にある路地に連れて行った。するとそこには、物陰に身を隠すようにして杏子が座り込んでいる。
「杏子ちゃん!?」
香夜はその姿を確認するなりすぐに座り込み、杏子の体を支える。
その体は汗でじっとりと湿っていた。確かに季節柄少し動けば汗は滲み出るが、それとは明らかに違うものだ。暗がりに目を凝らせば、その額にも脂汗が滲んでいる。また、今まで店に出ていたのか、杏子は綺麗に着飾ってはいたがその顔色は明らかに悪い。
「一体どうしたの? 何があったの?」
「香夜さん……ごめん。……借金取りに、追われてるの。それに……ちょっと、限界かも…………」
絞り出すように掠れた声で紡がれる言葉は、嫌な現実味がある。
杏子は呼吸が苦しいのか、言葉を終えると静かに目を閉じその肩を小さく上下させている。
香夜が杏子の手首で脈を取っていると、沙那が静かに話し出した。
「杏子ちゃん、お店に借金の取り立てが来た時かなり乱暴に扱われて……それで、お腹が痛いって突然倒れて……。一生懸命逃げてきたけど……この子、赤ちゃんが……」
言葉を紡ぐ沙那の声は震えていた。
彼女は事情をよく知っているのか何とか説明をしようと試みるが、パニックを起こしているらしくその言葉は途切れ途切れだ。しかしそれでも、香夜に必要最低限の情報を与えるには十分だった。
「杏子ちゃん。今はどこが痛むの?」
「…………」
香夜は持っていたハンドタオルで汗を拭いてやるが、杏子は目を閉じたままだ。
「沙那さん、この子……お腹打ったりしましたか? 転んで体に大きな衝撃を受けたとか。あなたが見ていた限りで構わないので」
答えのない杏子に、香夜は沙那に質問を投げかける。
沙那はそれにかぶりを振る。
「杏子ちゃん、痛みだけじゃなくてもいい。おかしなところはある?」
香夜は再び聞き方を変えて杏子に尋ねる。
すると、杏子はうっすらとその目を開く。
「香夜さん……」
「言えなかったら、指差しても良いのよ? わたしに教えて?」
さらに重ねて問いかけた香夜に、杏子はその唇を小さく動かした。
「――――」
しかしそれはあまりに小さな声で、香夜は聞き取ることができない。
「何?」
香夜は何を考える間もなく、自らの耳を杏子の口元に近づける。
その時、
「香夜さん……助……けて…………」
小さな小さな声が、ようやく香夜の耳に届いた。
それで力を使い果たしたのか、杏子はがっくりと香夜の腕の中で気を失った。
「やだ、杏子ちゃん!? ……杏子ちゃん!!」
だらりと垂れた杏子の手を見ながら、沙那は叫ぶような声を上げる。
「落ち着いて。静かにして! ……さっき、追われているって言いましたよね?」
香夜はさらにパニックを起こす沙那に冷静な視線を送る。
沙那は事態に気づいたのか、目を見開いて両手で自らの口を覆った。
「杏子ちゃんを、今すぐクリニックに運びます。手伝ってください」
静かに告げた香夜に、沙那は返事の代わりにコクコクと首を縦に振った。
◆◆◆
香夜は沙那と共に杏子を運ぶと、帰り支度をしていた紘務を呼び止めて処置を施して貰った。
幸い杏子は今回も大事には至らず、今はもう意識を取り戻してクリニック三階のリカバリールームのベッドに横たわっている。
香夜は真っ青な顔をして震える沙那の体をバスタオルでくるみ、ベッドサイドの椅子に座らせてやった。別室で横になるか尋ねたが、沙那は杏子の傍にいたいと言ったのだ。
「……杏子ちゃん大丈夫?」
沙那の声はいくらか落ち着きを取り戻したが、まだ少し震えている。
それも無理はない。店でかなりのことがあった上で、あの状態の杏子を連れてここまで逃げてきたのだ。パニック状態に陥りつつも、ここまでたどり着けただけで及第点だ。
「すみません、沙那さん……いっぱい迷惑かけちゃった……」
返ってきた杏子の力ない声に沙那は激しくかぶりを振る。
杏子はそんな沙那の後ろに立つ香夜と紘務に視線を送った。
「香夜さん、ありがとね。それから、先生も……ありがとう。赤ちゃん……大丈夫かな?」
「今日のところはね。もう少し遅かったら危なかったかもしれないけど。でも、今後もこんな事が続くようじゃ、まず子どもは無理だと思った方がいい。それに君自身の体だって保証できないよ」
紘務は真剣な面持ちで静かに述べた。
杏子もそれを分かっているのだろう、返事ができずにその視線を落とす。
辺りを短い沈黙が包み込む。
その時だった。
ガシャ――――――ン!!
何かが割れるような、けたたましい音が静寂を一気に切り裂いた。
その直後、
「杏子!! ここにいるのは分かってンだ。とっとと出てこい!!」
低い怒声が響き渡る。
それに一番に反応したのは沙那だった。
彼女はガタリと音を立てて椅子から立ち上がり、その拍子に彼女の肩からはバスタオルがはらりと落ちる。
「アイツらだ……山本が……なんでここに…………」
言った沙那の顔は青ざめている。
「山本?」
香夜は固有名詞を一つ拾い上げた。
一緒に聞いていた紘務は、誰にも分からない程度にその顔を一瞬顰める。
「借金取りの……ヤクザ。杏子ちゃんを追ってここまで来たんだわ」
沙那の言葉が終わるか終わらないかのうち、二人の男達がリカバリールームへと勢いよくなだれ込んできた。エレベータが止まっていた階数で、簡単に居所が割れてしまったらしい。最も、今はこのフロアしか照明がついていないので、ビルに入ったのさえ確認されてしまえば、何処にいるのかは外から一目瞭然だ。
「招かれざる客が来ちゃったねぇ」
紘務は厳しい表情で男達が入ってきた方を見ていた。
そして、紘務は男達を出迎えるように一歩前へと進み出る。
「君たち、ここが病院だっていう認識はあるかい?」
すると、男のうち一人が紘務を睨み付けるような仕草を見せ、紘務の肩に荒々しく手を掛ける。
その時だった。
「勝手に手ぇ出すんじゃねーよ」
酷く落ち着いた低い声が、その行動を制する。
気が付けば、二人の男達の後ろからもう一人別の男が姿を覗かせていた。
彼の全貌が見えた瞬間、沙那と杏子は今までよりも更に表情を強ばらせる。
香夜は二人の反応で今この目の前に現れた男が誰なのかを把握した。
年の頃は丁度三十代後半から四十代前半、中肉中背でその目は感情を含まずに冷たく鋭い。それは見るだけで恐怖心を煽られるような物だ。
そして、特徴的なのは眉間にある縫い傷。古傷なのかそれ程生々しいわけではなかったが、負った時は相当に酷かったのだろうとうかがい知れる代物だった。
「あんた、ここの先生か? 悪ぃな、ちょっと邪魔するぜ。俺らこいつに用があるだけであんた達に危害を加えるつもりはねぇんだ。済んだらすぐに帰るさ」
山本はそう言って紘務の肩をポンポンと叩くとその横をすり抜けた。
その時、杏子はこの山本から明らかに視線を外し、沙那は震えながらも彼をジッと見ていた。
「杏子、病院に逃げりゃ安全だと思ったか? 残念だったな。病気だなんて嘘が通用すると思うなよ」
山本は寝ていた杏子の腕を掴んで彼女の体を無理矢理に起こす。
「ちょ、ちょっと待ってください。彼女、本当に病人なんです。手荒なことは……」
驚いた香夜は慌ててそれを止めに入った。
「何だ? お嬢さん。邪魔してくれンな」
止めに入った香夜に、山本はその注意を向ける。
そして一旦杏子から手を離すと、香夜の姿を上から下まで舐めるように見た。そのギョロリとした視線はまるで爬虫類のようでさえあり、香夜の肌はゾクリと粟立った。
―To Be Continued―