松本綺音、二十七歳――本日この時を持ちまして、失恋を致しました。
ここは綺音が勤める会社のエントランス。帰宅ラッシュも既に過ぎた夜の時間帯。
数メートル先、ガラス張りのエントランスの外に見えるのは、綺音がずっと片思いをしていた同期の河村直輝――と、それを待っていたらしい恋人。
栗色のふわふわパーマが印象的な可愛い彼女。
同じロングヘアーでも、焦げ茶色のそれを仕事の邪魔だからといつもまとめ上げている綺音とは正反対。
そして、小柄で小動物的な愛らしさを備える河村の恋人に対し、綺音は身長一七二センチの大柄体型。その最上部には、美人じゃないが比較的目鼻立ちのはっきりした顔が付随している。
おかげで、生まれてこの方二十七年、“格好いい”とは言われても、“可愛い”なんてことは大昔、七五三の時に言われたくらい。
(ホント真逆……)
自分で言いたくはないが、別の意味では言ってしまわないとやっていられない。それ程に正反対な河村の恋人と綺音。
この恋人の存在を、綺音はしばらく前から知っていた。正確に言えば河村に片思いを始めた時から知っていた。それでも思うくらいは自由だろうと思って、もう一年近くも片思い。
別に積極的介入をして奪うつもりは無かった。ただ……万に一つも、河村が恋人と別れてまるで正反対の自分の所へ転がり込んできてくれたりしないかなぁ……ってそんなドラマチックな夢を見ただけ。
でもそんなのは本当の本当に夢だった。
だって綺音は、今この時この瞬間に見てしまったのだから。
河村に愛おしそうに絡められた彼女の左腕。そして、その先の薬指には輝く物――コンヤクユビワ、があることを。
それをはめられてしまってはもう綺音に勝ち目などない。
(あーあ、失恋しちゃったよ…………)
綺音は心の中で独り言ちた。
瞬間、熱いものがこみ上げてくる。
(ヤバ…………)
思ったが溢れ出る物は止まらない。
綺音は泣くつもりなど無かった。
だって初めから諦めていた恋だったから。
それでも、決定的シーンを目の当たりにしてしまえばショックは随分と大きかったらしい。
(泣くな、わたし…………)
思うが涙は止まらなかった。
そして、何で涙って水道の蛇口みたいに自由に調節できないんだろう、と無茶な疑問を持つ。
そんなことを思いながら、綺音はこの時、早くこの場を去りたかった。
まさか、今こんな会社のエントランスで泣くわけにはいかない。いくらラッシュを過ぎたとは言え、未だまばらに人はいる。そんなところで無様に泣いたらいい笑いものだ。
しかし、綺音の足も動かなかった。
だから仕方なしに、せめてもの抵抗として痛いほどに奥歯を噛みしめる。もう、そうするより、のどの奥から迫り上がる物を引かせる方法を思いつかなくて。
そうこうするうちに、明らかに様子のおかしい綺音を、通りがかる人たちがチラチラと見始める。
無理もない。エントランスで立ちつくし、険しい顔をしながら泣きそうな顔をする女が一人――見るなと言う方が難しい。それも、小柄な女の子でも泣いていれば様になるのかもしれないが、大柄な綺音が同じことをしていてもただ無駄に目立ってしまうだけ。
綺音はあまりに力を入れすぎて頭に血が上り、さらにはこれまでのショックと羞恥心が相乗して思わず意識を手放しそうになる。
その時だった。
「松本さん、どうした?」
知らぬ間に綺音の背を包むように誰かがその後ろに立っていた。
大きな綺音の頭上から話しかけられるような、彼女よりまだ大きな誰か。
次の瞬間、その誰かは今にも溢れそうな綺音の目元をその大きな手で覆ってくれる。それはまるで、周囲から綺音の涙を隠すように。
そして、
「コンタクトずれたんだろ?」
素っ頓狂な問いが投げられた。
でもそれは、その誰かが通りがかる人たちに涙の説明をしてくれているのだということを、綺音は何となく感じていた。
続けて「ほら」と差し出された男物のハンカチに、綺音はそのまま甘えてその顔を埋める。
知っている、香りがした。
でも、今はそんなことはどうでもよくて、綺音はそのまま背を預けるようにその誰かの胸に寄りかかった。
(…………朝?)
綺音はカーテンの隙間から漏れ射す朝日に、その目をゆっくりと開く。
昨晩はどうやらコンタクトレンズを入れたまま寝てしまったらしく、目がシパシパする。おまけに化粧も落としてないのか、マスカラはバサバサ。
目にも肌にもなんと悪いことをしてしまったのか、と瞬時に後悔が支配する。
そして、この調子ではまず間違いなく洋服を着たまま寝ているはずだと、綺音はさらなる後悔の念に苛まれる。
(あーあ、服、皺だらけだろうなぁ…………)
今更どうしようもない思いを抱えながら、綺音はわずかにずれるコンタクトを瞬きで調整しつつむっくりと起きあがる。
(…………)
そこで初めて、綺音は自身の異変に気づいた。
(何……これ…………)
どういう訳か、綺音は今裸だったのだ。
まさかと思ってちょっとばかりダウンケットをめくれば、パンツの一枚も穿いていないという由々しき事態。これぞまさしく全裸というやつだ。すっぽんぽんだ。
綺音はダウンケットを戻しながら、ザッと辺りを見回す。
そして…………
(っていうか……そもそも、ここ何処デスカ?)
自問自答した。
今更その疑問か! と思わず自分でも突っ込みたくなるが、綺音は今この瞬間初めて自分がいるのが自宅ではないことを知った。
だって、どう考えても自宅にこんな大きなベッドはないし、シーツもこんなにパリッと糊は利いてない。さらに、自宅で全裸で寝る習慣など綺音にはない。もう一つおまけに言うならば、少し前に全裸で寝ると健康に良いとかいう話も聞いたが、そんな健康法を取り入れた覚えもない。
(ここ……ホテル?)
綺音は周囲を見回しながらその結論にたどり着いた。
しかしそれは、いわゆるいかがわしい種別のそれではなく。ビジネスホテルやら、シティホテルに区分されるところだ。ただし、どう考えてもシングルルームではなかったが。
そして綺音は、次なる不安に駆られてその視線を恐る恐る隣へと送った。
が、
そこには綺音が案じたような“誰か”の姿は無かった。
この状況ではまず間違いなく、自分と同じような全裸の誰かがいるのがお約束、と思ったが、そこは無人。
しかし、大変残念なことに誰かがいた形跡はあった。しわくちゃになったシーツ。そして、頭を乗せた跡のある枕。さらに、綺音の物とは思えない短い髪の毛。そっと手を伸ばしてみれば、そこにはまだわずかに残る温もりが…………
昨晩綺音が誰かと何かを致してしまったことは、ほぼ九割の確率で間違いないようだった。まぁそうでなくとも、この微妙な節々の痛みと体の怠さは昨晩飲みすぎた酒のせいだけではないと分かっていたが。
綺音は「うーん」と若干嗄れた声で唸りながら、ベッドに俯せる。
この声だって、酒のせいだけではないということは想像がついている。ナニをドウコウした故でのことだろう。
それは、綺音が色々なものを払拭するように枕に頭をこすりつけた次の瞬間だった。
「起きたのか?」
突然聞こえた声に、綺音はビクリと肩を震わせる。
そして、恐る恐る埋もれた枕から顔を上げると…………
「せ、せせせせせ千堂さん!?」
綺音はその名を呼びながら自身の全身から血の気がサァッと引いていくのを感じた。