綺音の矯正視力一.二が間違いなければ、今目の前にいるのは千堂智司に間違いなかった。
シャワーを浴びた後なのであろう彼は、バスローブを身につけている。そして、まだ雫の滴る髪を長い指で掻き上げる姿は、なんだか異常な色気を醸し出している。
(まるで……モデルか俳優さんみたい)
綺音は千堂を見ながらそんなことを思ったが、できればその人物をご遠慮申し上げたい彼女は、もう一度モフッと枕に顔を押しつけて再び顔を上げる。
一瞬知り合いの千堂という男かと思ったが、実は似ている別人でした……という儚い願いを持って。
しかし、再度見てもそこにいるのは、千堂智司その人で間違いない。
(ど、どうして千堂さんが……………)
綺音は漏れ出そうになる溜息を必死で堪えた。
千堂智司、三十二歳――――
彼は綺音の同僚。正確に言うと、彼は綺音とは別の会社に所属しているが、仕事の関係で半年ほど前から彼女の会社へと出向してきている。
ちなみに、大切なのは彼が綺音の苦手な人ナンバーワンに君臨するということ。
彼の何が苦手かって、それはとってもドSなところ。俗に言ういじめっ子という奴だ。
半年前、千堂が初めて出向してきた時、一緒に組んだ綺音は彼の苛めの標的にされた。
彼曰く、「松本さんの困った顔が大好物」だそうで、暇さえあれば綺音を苛めて遊んでいる。酷い時は面と向かって「今すぐ困った顔をしてみろ」と言われたことだってある。
しかしこれは、他の人がいるところでは行われない。綺音と千堂二人きりのときだけに繰り広げられることなのだ。
千堂は普段いつでもニコニコしていて風評がすこぶる良い。というか、彼を悪く言う人など誰もいない。会社の人間は男女問わず彼を慕っており、上司はヘッドハンティングの対象にしているし、部下は自社の先輩よりも頼りになると慕っている。誰が見ても正真正銘の“良い人”なのだ。
事実、綺音も当初はそう思っていた。なんて素敵な人だろう、と。そう思っていたのだが、一緒に仕事をするようになって間もなく、二人きりで個室で仕事をしていた時に綺音はふと彼に聞いてしまったのだ。
『千堂さん、そんなに良い人でいて疲れませんか? たまには本性出してます?』
別に悪意はなかった。
ただ、綺音はちょっと気になっただけというか……どちらかといえば、疲れるだろうな~、家に帰ればリラックスできてるのかな~とか、恋人の前では素の自分が出せているのかな~なんて心配をしたくらいなもので、彼の秘密を暴いてやろうとかそんなことは微塵も思っていなかった。
でも、それを言った直後、千堂は激変した。別人と化した。
そりゃもう「あなた、千堂さんの着ぐるみを着たどちら様ですか?」と真面目に聞きたくなるくらいに。
そんな千堂に思わず綺音は「豹変」という言葉を口に出してしまった。すると千堂は悪びれもせず、「バレた相手に気を遣う必要はない」と返したのだ。もちろん「誰にも言うなよ? 言ったら分かってるよな?」という脅し付き。
とりあえず、その時に綺音が千堂の何かのスイッチを押してしまったことは間違いないらしかった。
その後、千堂のあまりの豹変ぶりに驚いた綺音は、仲良しの同期に愚痴ってみた。口止めされているのでもちろんコッソリと。
しかし千堂には既に“良い人”イメージがしっかりと根付いているために、誰も信じてはくれなかったわけで……。
綺音がどんなに説明しても「千堂さんが、そんなことするわけないじゃない」と相手にしてもらえず。終いには「綺音、イイ男と仕事できるんだからいいじゃない。そんなに照れるなって」とか変な方向へ話が行く始末。
綺音は自分に勝ち目がないことを悟った。
そして、綺音は千堂の本性を知ってから先、もう一つ別の害を被ったのだ。
彼は本性を晒してから先、どんな仕事も綺音と組んでしたがるようになった。もちろんその真の目的は楽に仕事をしたいからだろうと綺音は思っていたが。だって、自分と二人でいれば、少なくとも千堂は“良い人でいる”という労力は削減できるから。
しかしそれを良く思わない者たちがいたのだ。
その名も、女子社員ご一行様。
当たり前の如く、彼女たちは風評抜群の千堂を狙っていた。つまり、そんな彼女たちにとって常に千堂の傍にいる綺音は完全なる邪魔者。
お蔭でさんざんな言われようだ。「千堂さんの優しさに付け込んで無理矢理一緒に仕事させてる」だとか「愛人にしてもらってる」とか「可愛くもないくせに媚びを売ってる」とか……よくもまぁそんなに言えますね、と褒めてやりたくなるほどに。
もちろん抜かりのない千堂は、仕事上のメリットを端的にまとめ上げ、至極真っ当な理由で綺音と組むことの了承を上から得ていた。でも、それを信じちゃくれないのが女子社員ご一行様だ。
女はいつだって女を悪者にしたがる――それはもう、いつの世も同じだと割り切るべきだろう。
千堂には苛められ、女子社員ご一行様からは疎まれ散々だ。
しかしながら正直なところ、千堂と仕事をしていると悪いことばかりでもないというのも綺音の本音である。
千堂と行動を共にするようになってから先、仕事の速度も効率も、さらには成功率も格段にあがったのは確かなことだった。
また、千堂は綺音の限界を凄いタイミングで見極めてくれる。綺音がきついな、と思った時には、残りの仕事を黙ってこなしておいてくれたり、仕事が進みやすいように他の調整を全て取っておいてくれたりする。それは本当にありがたい。
もう一つ言えば彼は仕事後のフォローも抜け目ない。綺音が仕事を頑張った時には美味しいご飯をご馳走してくれたり、ちょっとしたお菓子で餌付けしてくれたりもする。
だからこそ、綺音は千堂を完全に“嫌い”にはなれないのだ。“苦手”だけど“嫌い”じゃない、とっても微妙な立ち位置というやつである。
しかし、間違ってもどんなに優しくされたところで「あ、千堂さんてやっぱり良い人……」なんて思ったりはしない。
飴の後には必ず鞭が待っている――この半年間で綺音はそれを嫌と言うほど学んできたから。良い人、と思った瞬間に裏切られるあの悲壮感といったら、それはもう聞くも涙、語るも涙の物語だ。
もちろん、彼はその悲壮感たっぷりな綺音の顔を見て喜ぶわけである。「良い顔するな」とかなんとか言って。
鬼畜だ――綺音はそう思う。
千堂という男は、そういう男なのである。本当にSだ。少なくとも、綺音が今まで関わってき男性の中では突出して。
そんな男が今、目の前にいる。
信じ難い現実。
綺音はもう一度恐る恐る千堂を見る。
その時、綺音はわずかな願いを持っていた。
もしかしてもしかすると、残りの一割の確率で千堂と綺音は今ここにいるだけで何もなかったのかもしれない、と。
綺音のとってもご都合主義な妄想によれば、夕べ酔って眠った綺音を一緒に飲んでいたであろう千堂がホテルに運び、皺になるからとご丁寧に服を全部脱がせてくれたか若しくは綺音が自分で脱いだか、それで朝まで何もなく熟睡――そんなこともあるかもしれない、と。で、今感じているこの節々の痛みと怠さはきっと絶対二日酔いの一種だろうと。
(やったと思ったけど、実は何もなかった……そんなパターン、漫画やドラマでもよくあるよね!?)
綺音はとりあえず自身を元気づけ、自らの妄想――いや予測を裏付けることにした。
そして、
「あの……千堂さん」
皺の寄ったアッパーシーツにくるまった綺音はベッド上で座り直し、千堂に対峙したのだ。