Episode 3

 千堂は神妙な面持ちをした綺音に「何?」と返事をしながら、相変わらずの色気を振りまいて彼女の隣に腰を下ろす。
「あの……あのですね、夕べ……その……わたし……なんというか、あの……千堂さんと……そのぉ……………」
 綺音は言葉を選びつつ質問したいことを投げかけようとする。
 ぶっちゃけて言えば「わたし、昨日千堂さんとセックスしましたか?」と聞きたいだけなのだが、いくら確認作業とはいえ、あまりにダイレクトに聞くのもどうかと思い口籠もってしまう。
 すると、
「千堂さん、か……」
 千堂はそうポツリと呟くと、突然バスローブの上半身をはだけた。
「……え?」
 綺音が驚く間もなく、千堂は彼女の手を取るとそれを自分の左鎖骨へと持って行く。
「これ……誰が付けた?」
 そう言われて千堂の鎖骨を見れば、そこには見事な歯形があった。それは『いやぁ、歯形って意外と綺麗につくんですねぇ』と感心してしまうほどの一品。
 千堂は続ける。
「こんなところ、女に噛まれたのは初めてだ。智司、って甘ったれた声で呼ぶから何かと思えばそのままカプッとな。さすがに驚いたよ」
「…………」
 聞いた直後、綺音は一瞬にして動きを止めた。
 しかしそれは鎖骨を噛んだ云々の話に対してではなく、「智司って誰ですか?」というもっと根本的な疑問に対して。だが、すぐに綺音は千堂の下の名前がそんなだったことに気づく。
 もちろん、綺音の顔色はみるみるうちに悪くなる。
 だってつまりこういうことだ……
 綺音は千堂のファーストネームを呼び捨てにして尚かつ鎖骨に齧り付いた。
(…………わたし、馬鹿なんだよね。うん、馬鹿だ。……知ってたけど)
 もはや、自分は一体全体なんてチャレンジャーなんだと、綺音は自身に突っ込まずにいられない。そして同時に、自分の行いに対して猛烈に後悔をする。
 そんな綺音に構わず、千堂はさらに言葉を紡ぐ。
「どうした? ……まさか、覚えてないなんて言わないよな? 男一人、こんな風に傷物にしておいて、今更そんなこと言うはずがないよな? 綺」
 その時、綺音の肩はピクリと反応した。
 引き金はその名前だった。
 千堂の唇から漏れ出た“アヤ”というたった二文字。
 綺音の脳裏にはある場面が一瞬にしてフラッシュバックする。
 ベッドに組み敷かれ、荒げる呼吸に生理的な涙を流す自分――なんだか心許なくて縋るように手を伸ばすと、それを絡め取るように迎えてくれるのは大きな手。
 そして、
「綺……綺…………」
 と優しく呼んでくれる声。
 それが何だかくすぐったくて、切なくて、嬉しくて絡めた手に力を入れ……
「智司……」
 記憶の中の綺音は掠れる声でその名を呼んだ。
(ひぃぃぃ、何呼んじゃってるのぉ!! 馬鹿綺音ぇ!)
 綺音は思わず記憶の中の自分を止める。
 しかしもちろん止まるはずもなく、記憶の綺音は目の前にある逞しそうな千堂の鎖骨めがけて…………
(嫌ぁぁぁ、やめなさいぃぃ!! それは食べるものじゃないのぉぉぉ!!)
 綺音は再び記憶の中の自分を思い切り止める。
 そして、いつの間にかその顔は真っ赤に染まっていて。
「思い出したか?」
「……お、おお思い出しません!! 全然覚えていません。何も覚えてないですから!!」
 綺音はまるで早口言葉のようにそれらを紡いだ。
 なんだか千堂に自らの思考を垣間見られたような気がして、思わず嘘をついてしまった。
 その次の瞬間、
「へぇ……そういうこと言うんだ、綺は」
 そんな声が聞こえたかと思うと綺音の視界はがらりと変わる。
 気づけば、目の前には千堂が不適な笑みを浮かべていた。それは綺音のよく知っている顔。
 千堂が綺音に意地悪をするときの何ともいえない顔。
 そして、その千堂の後ろに見えるのはさっき目覚めた時に見た天井で…………
「な……何するんですか! 千堂さん」
 千堂に押し倒されたのだと綺音が理解するまでたっぷり三秒はかかった。
「何って綺が覚えてないって言うから復習。復習は大事だって学生の頃よく言われたろう?」
(言われましたが、それはこんな風に使うべきではないと思います!)
 できれば綺音はそれを口に出して抗議をしたいが、もはやそんな余裕はなく思うだけが精一杯。
 そうこうするうちに、千堂は慌てふためく綺音の右耳に息を吹きかけ、そのまま首筋へと愛撫を始める。
「あっ……は、ん……」
 綺音の体が否応なしに反応する。
「感度は最高にいいんだよな」
 千堂はそれを楽しむように唇を、指を綺音の首筋、鎖骨、胸元へと這わせる。
 綺音の体に熱が帯び始める。
「う、やぁ……せん、どーさん……」
「名前、違う」
 抵抗をするも押さえつけられた力と、優しい愛撫に敵うはずもなく。さらに千堂から返ってくるのは名前の訂正を求める答えだけ。
「そん……な、千堂、さん……あ……ふぅ……や、ん…………」
「ほら、早く。それとも、このままもう一度ヤるか?」
「や、あ……は、ぁん……さ……さと……ん……」
「聞こえない」
 千堂は綺音のことなどまるでお構いなしという風に、楽しみながら愛撫を進めていく。まるで本当に昨晩の出来事を復習するように、綺音の肌に指と唇を滑らせていく。
「……や、んン……やめ……」
「先、進むぞ?」
「だ、めぇ…………さ……智司、さ……ん!」
 綺音はついになけなしの力を振り絞ってその名を呼んだ。一応せめてもの抵抗としてさん付けにはしてみたが。
 すると、いつの間にか綺音の胸元からあげられていた千堂の顔には、いたずらを成功させた子供のような笑みが浮かべられていた。
「綺、やればできるじゃないか」
(いや……褒められても全然嬉しくないです)
 ようやく解放された綺音は、心の中で返答しながらゼイゼイと荒い呼吸を繰り返す。
「やっと思い出したか?」
「…………」
 続けて千堂から投げられた問いに、綺音は答えなかった。
 すると、
「そう……綺は物足りなかったんだ? もっとシたい? 夕べ結構激しかったんだけどな」
 再び綺音の胸元に顔を埋め、その鎖骨をぺろりと舐めあげる千堂。
「ココ……俺もお返しに、噛んでやろうか? キスマークなんかよりよっぽど目立つマーキングだよな、歯形ってさ」
「ひぃっ……ごめんなさいぃぃ!! もういい! ……もういいです! 今、思い出した……思い出しましたよぉ!! 隈無く鮮明に、何もかもぉっっ!!」
 綺音は恐怖のあまり、早口で悲鳴のような声を上げた。
 千堂は相変わらずの不敵な笑みで綺音を見据える。綺音は否応なしにその漆黒の双眸に捕らえられる。
 もはや獰猛な肉食獣に睨まれた小動物の気分だ。
「どこから思い出した?」
「…………」
 意地悪く尋ねる千堂に綺音は再び黙ったが、もはやごまかすことはできないと腹を括る。
「会社の……エントランスで、千……智司さんに助けてもらったところから、です……」
 そう、あれは綺音が河村に失恋をして、泣いてしまいそうになった時のこと。
 ハンカチを差し出してくれたのは、確かに千堂だった。
(えぇ……覚えてます。すっかり思い出しましたよ……最初から最後まで全部……あなたのお陰で何もかも)
 既に、頭の中で記憶のパズルをすっかりと完成させた綺音は心の中で深い深いため息をついた。


No.3