時は遡り――……
失恋直後、綺音が会社のエントランスで醜態を晒す寸前、運良く彼女は千堂に助けられた。
それからひとしきり泣いた綺音は彼と夜の街へ飲みに出かけたのだ。
千堂に連れられて入った居酒屋で、綺音は随分な量の酒をあおったのを覚えている。大ジョッキの生ビールに始まり、お店自慢の梅酒のロック、お気に入りの日本酒に焼酎数シリーズ……
こんな時はアルコール耐性があると便利だなぁと思いながら、綺音は食事らしい食事も取らずに『お母さん、呑兵衛な娘でごめんなさい』と謝りたくなるほどに飲んだ。
それで、気づいた時には千堂に愚痴っていた。河村に失恋したことをぶちぶちと。
何故かそれを千堂は静かに聞いてくれた。
それがそもそも綺音の予想外だった。いつものいじめっ子千堂なら一笑して「ざまーみろ」とか言って終わりだろうと思っていたのに、あまりによく聞いてくれるものですっかり調子に乗った綺音は彼に随分絡んだ。
記憶によれば「男はどうせ小さい女が好きなんでしょ? おっぱいは大きい方が好きなくせに」とか「大きくて悪うございましたね。ただし、身長だけで、おっぱいは普通ですけど。普通ですよ、普通。小さくはないですから!」とか「大きい女は仕草も佇まいも、可愛さの欠片もなくてすみませんね」とか……
そんな理不尽な絡み方を千堂にするなど、今となっては信じがたい事実。でも、事実、綺音はそうしたのだ。
そして随分酒も回ってきた頃、
「わたし……河村君の彼女みたいに可愛く生まれたかったな……」
綺音は不貞腐れたように頬杖を付きながらそう呟いた。
そんな彼女に千堂が返したのは、
「そんなもの、今更羨んだってどうしようもないだろう」
そんな味も素っ気もない返答で。
ちょっとだけ、優しい同情の言葉を期待していた綺音はさらに不貞腐れた。
だから突っ掛かった。
「千堂さん、今のはそういう返答間違いです。君には君の可愛さがあるよ、とか気の利いた台詞のひとつも言えないんですか?」
「言って欲しいのか。じゃあ……松本サン、君ハトッテモ魅力的ダヨ可愛イネ。……これで、満足したか?」
「……喧嘩売ってるんですか? 何ですその棒読み。千堂さんの大根役者! 三十過ぎのいい大人が、そんな台詞のひとつも言ったこと無いんですか? あ、もしかして千堂さんて彼女いない歴イコール年齢なんじゃないですか?」
「なんで? 今も過去も俺に恋人がいないとどうして言い切れる?」
随分と理不尽な突っかかり方をしていると、その時の綺音もどこかで気づいていた。
こういうところが自分の可愛くないところなのだと自覚もあった。
でも、走り始めた感情をもはや自身でも制御することはできなかったのだ。
「だって千堂さん、今恋人がいたらわたしなんかとここで一緒にいないでしょう? 今日は金曜日ですよ? しかも、わたしと千堂さんに限って言えば、一つ大きな仕事が片付いた、何も捕らわれることのない金曜日の夜。恋人がいたら、わたしにハンカチだけ渡して帰るでしょうからね。っていうか、エントランスでわたしを見かけても見て見ぬ振りして帰ったでしょう。それに…………」
言いかけて綺音は千堂の顔を据わった目で見つめる。
「それに、なんだ? 言いかけて止めるな」
「その豹変ぶりじゃ、彼女はできないでしょうからね。“良い人”に釣られる人は多くても、素を見たらまず逃げるでしょう。そのお綺麗な容姿で釣って必殺良い人攻撃で手懐けても、本性出した瞬間にサイテーって逃げていくはずです。まぁ、顔だけ良ければ万事オッケーな人もいるでしょうけど」
綺音は言い切ってやった、とばかりにあははと笑い、渇いた喉を酒で潤す。
いつもいじめられている仕返しだ。たまには自分だって言ってやるんだ――綺音はそんな気分だった。
「随分な言われようだが、目の付けどころは悪くないな。だったら松本さんは何で逃げない? 松本さんも顔だけ良ければいいと?」
「違います」
「だったらどうして?」
綺音は一度間を開けて、小さく一つ息を吐いた。
そして、
「嫌いじゃないからです」
そう答えた綺音を千堂は不思議そうに見ていた。なんだか珍獣でも見るような目で。
「松本さん、それは湾曲した愛の告白か?」
「断じて違います。絶対違います。自惚れないでください。わたしが河村君に失恋したばかりだって話、千堂さん今聞いてました?」
千堂のポジティブすぎる解釈に綺音は彼をキッと睨み付ける。
「はっきり言って、意地悪する千堂さんは苦手です。ちょっと優しくしてくれたかな、と思った次の瞬間に奈落の底に突き落とすような真似をする千堂さんが苦手です。でも……困ったことに嫌いじゃありません」
「やっぱり愛情表現なのか? 松本さん、臍曲がりだな」
「わたしのお臍は曲がってもいませんし、出てもいません。……って、別にお臍の話はどうでも良いんです。嫌いじゃないっていうのはあくまで仕事上の話です。いいですか?」
言って千堂が反応しないのを見ると、綺音は「返事をしてください!」と催促して、無理矢理彼を頷かせた。
「千堂さんはね、そのいじめっ子な性格はさておき仕事の手際と気配りだけは完璧です。わたし、就職してから先、誰よりも千堂さんと仕事してる時が一番スムーズなんです。日で計算しても、週で計算しても、凄い量の仕事こなせてます。たぶん、それはわたしだけの気のせいじゃありません。課長や部長もそう言ってましたから。それに……忘れた頃優しくしてくれるし……だから、困ったことに嫌いになれないんじゃないですか」
綺音は『優しくしてくれる』だけを少し小声で言った。明らかに意地悪なことが多いので、せめてもの仕返しだ。
その時、千堂はわずかではあるがフッと柔らかな笑みを零した。
「な……なんですか?」
綺音は思わず構えてしまう。
だって、そんな風に笑う千堂は見たことが無かったから。
いつも見せる彼の笑みは、明らかに作った営業用笑顔か、綺音を苛めて楽しむ時の不敵な笑みのどちらかだけだ。
それなのに、今のは……
「随分酷い言われようだが、一応褒めてるんだろ? ありがたく受け取っておくよ」
「べ、別に……褒めた訳じゃ……でも、だったら、そのお礼にこれから苛めないでいてくれますか?」
「それは無理な相談だ」
「どうして!」
思わず噛み付くように言った綺音に、千堂はまたいつものような不敵な笑みを見せている。
「俺のストレス発散奪ったら、仕事の効率落ちるぞ? せっかく上司に褒められてるのに、信用がた落ちだな」
「……い、意地悪ぅぅぅ。千堂さんなんてどこか行っちゃえ!」
綺音がそういった瞬間、タイミングよく千堂のスマートフォンが電話の着信を告げ、彼は「松本さんの、ご所望通りに」と言って席を立った。