※文字サイズ変更ボタン; 

* 彼の策略 1 *

 カーテンの隙間から漏れ入る光に、城田七海は目を覚ました。
(朝か……)
 条件反射のようにベッド脇のテーブルにおいてある時計を見ると時刻はまだ六時。
 どうやら、いつの間にか寝てしまったらしいということに城田は気づく。確か、四時近くまで時計を覚えていたので、二時間と少しだけ寝ていた計算だ。
 ふと隣を見やると、そこには会社の部下、野崎芽子の姿がある。
 彼女が傍にいると眠れた試しがないのに、どうやら自分も疲れていたようだと城田は一人納得する。
 なぜ、芽子が隣にいると眠れないのか――それは芽子と城田が恋人同士ではないから。もちろん夫婦でもないから。もう一つおまけに言えば、城田は芽子が好きだから。
 二〇代後半のいい大人の男が、好きな女を隣に置いて尚かつ手を出してはならないという状況は、まず寝られるわけがない。どう考えても無理。できる男がいるならば、絶対どこかに欠陥があるに決まっている(たぶん)。
 城田は肘枕をすると、隣で穏やかな寝息を立てる芽子の寝顔を観察し始めた。
 その脳裏に思い起こされるのは、この関係が始まる少し前のこと……――


★*★*★*★*★*★*★*★



 城田がそれに気づいたのは今から数ヶ月前のことだった。
 いつの頃からか芽子の仕事にミスが目立ち始めた。
 これまで芽子は仕事のスピードには欠けるものの、ミスのない物を仕上げることで定評があった。そして、新しいことの飲み込みもこれまで比較的スムーズであったのに同じタイミングで急に効率が落ちたのだ。またボーッとしていることが増え、まるで物事に集中できない、という雰囲気。
 城田は直属の先輩であったために芽子のその異変にはすぐに気づいたが、特に介入することもなく見守っていた。何かしら悩みがあるのだろうと思っていたが、単なる職場の先輩でしかない自分がむやみに踏み込むことではないと判断したから。
 しばらくして芽子が有給休暇を取ったかと思うと、その休み明けにはスッキリとした顔をしていて任せた仕事も卒なくこなしてくれた。
 悩みが解決したのかと城田は安心した。が、それも束の間、またすぐに芽子は元気を無くした。それでも、また少しすると復活し、気が付くと沈む……その繰り返しが起こっていることに城田は徐々に気づいた。
 その頃、城田はなぜか芽子から目が離せなくなっていた。なぜか気になって仕方がないのだ。仕事中はもちろん、家に帰っても脳裏に浮かぶのは芽子のこと。
 それはもはや、単なる心配という感情を超越していて――城田の中ではいつの間にか、芽子が一人の後輩から女へと変わっていたのだ。
 そんな風に意識をしてしまうと余計に気になり、尚更追ってしまうのが世の常。
 ある晩催された課の若手を集めた飲み会でも、城田は芽子を見ていた。
 やがて宴もたけなわとなり、酔ったらしい芽子は隣に座っていた同期の小見山咲にしなだれかかっていた。頬をピンク色に染め、愚図るように咲に甘える芽子――何とも可愛い姿だ。
 それに対し、咲はその片手にロックの焼酎を持ち、サバサバとした態度で応じている。しかしそれは決して芽子を邪険にしているわけではない。小見山咲という女は相手が誰であれ、あまり表情を変えず、そして感情も露わにしないフラットな人間なのである。
 そんな彼女は係が違うため、城田はそれ程良く把握しているわけではないが、何だか自分に似た女だと思っていた。
 そして、この咲と芽子は入社当初から仲がよい。サバサバした咲とどちらかと言えばふよんとおっとり系の芽子。何が合ったのかは不明であるが、気が付くと二人はよく一緒に過ごしている。そして、今のようなやりとりが交わされているのだ。
 と、その時、
「咲ちゃん、わたしの抱き枕になってよぅ……」
 はっきりとした芽子の声が聞こえた。芽子と城田の距離は少しある。尚かつこのざわついた場で聞こえるのだから、彼女はよほど大きな声を出したらしかった。
 一体何事かと思って改めて耳を傾けてみれば……芽子は自身が悩む不眠について咲に力説していた。しかしそれは、どうやらそうらしいというだけのことだ。芽子は先ほどとは異なり、普通の音量で話しているために城田の位置では余りよく聞き取れない。
 それでも拾った単語を併せれば、芽子が不眠症らしい、ということくらいは分かった。
 城田はそれで一つ納得がいった。
 そのせいで芽子の様子がおかしかったのだ、と。
 そして安心もした。
 芽子に気が向き始めてから先、もしも男関係で芽子が揉めていたら――と城田は思っていたから。
 しかし、安心をするのはまだ早かった。
「俺、芽ちゃん誘ってみようかな」
 予想外の所から聞こえた予想外の言葉に城田は思わずその眉根に皺を寄せる。
 言葉の主は、城田のすぐ隣で同期達と飲んでいた伊沢いざわ翔太しょうただった。伊沢は城田の二年下、芽子の二年上で同じ係に配属されている男だ。
 この伊沢は城田とは正反対の人種で、人懐こく表情がクルクルと変わり、いつも誰かしらが傍にいる。所謂、人気者というやつだ。芽子とも仲は良く、正式な場を除いては『芽ちゃん』と愛称で呼んでいるくらいだ。
「なんだよ、翔太。俺が抱き枕になって一緒に寝てやるよってか?」
「アハハ、どーせ一緒に寝るだけじゃ済まねーだろうが」
 傍にいた伊沢の同期、綾瀬あやせ観月みづきがすぐに茶々を入れる。
 どうやら彼らも芽子の叫びを聞いていたらしい。
「でもさ、何だか今日の野崎さん可愛いよな」
 綾瀬が芽子へ視線を送る。
「クールビューティーな小見山さんも良いけど、野崎さんのふよっとした穏やかさが癒されるんだよな」
 綾瀬がうんうんと一人頷きながら言葉を並べると伊沢が「だろう?」とまるで芽子が我が物であるかのように得意げな顔を見せる。
 すると、観月も芽子と咲を一瞥する。
「確かに、小見山さんはいい女だけど俺的にも野崎さんだな。そのふよっとした野崎さんが乱れる姿に興味があるよ。苛め甲斐ありそうじゃね? ……うわっ、何か想像してたら抱いてみてぇー」
 その時、観月がその顔に浮かべた卑下た笑みに、城田は思わずグラスを掴んでいた手に力を込めた。
 許されるなら、今すぐ彼を殴り飛ばしたいという暴力的な衝動に駆られるが、城田は酒の席での戯れ言だと精一杯の理性を以てして自らを抑える。
 しかし、この時の城田にそれ以上の冷静さはなかった。

* 彼の策略 1 *

↑ PAGE TOP