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* 好敵手ライバルの始動 1 *

「めーいちゃん」
 終業時刻十五分後、パソコンの電源を落とした芽子に声を掛けたのは向かいの席の伊沢。
 芽子が徐に顔を上げればそこには満面の笑みを浮かべた伊沢が見える。
「なんですか?」
「今日、飯行かない?」
「今日……ですか?」
「そう、今日今から。ちなみに、飲みも込みで行こう?」
 相変わらずの満面の笑みで伊沢が誘いを掛けるが、芽子は渋い表情で「うーん」と返事を渋る。
 なぜなら、今日は既にピンクの付箋が付いているから。
 芽子は無意識のうちに城田の方へ視線を向けてしまう。が、城田は伊沢と芽子の会話を聞いていないのか、まだ残っている仕事を淡々と片づけている。
 本来なら悩むところではない。伊沢には「ごめんなさい、また今度」と伝えればいい。たったそれだけのこと。
 しかし、芽子にそれができないのは…………
「今日こそ付き合ってもらうよ? 芽ちゃん」
 この誘いが、今日初めてではないから。
 今月に入って早十日、芽子は既に三回は伊沢から誘われている。それも何ともタイミングの悪いことに毎度ピンクの付箋が付いている晩ばかり。
 元々伊沢は良い先輩で、一緒に喋っていて楽しいのでタイミングさえ合えば芽子も出かけたい。出かけたいが……………
「ごめんなさい、伊沢さん。今日はどうしても……」
「え? また今日も駄目? もしかしてさ……俺、芽ちゃんに嫌われてる?」
「いや、そんなこと無いですよ! 嫌いなわけないじゃないですか!!」
 シュンとした表情を見せる伊沢に、芽子はこれでもかという程、手と首をブンブン振る。そして、「本当に?」と問い直した伊沢に、今度は首を一生懸命縦に振る芽子。
「ただ、今日は先約が……その、ありましてね……」
「ふーん、先約ね。じゃあさ、それ誰?」
「…………」
 伊沢から繰り出された新たな質問に芽子はウッと言葉に詰まった。
 だって聞かれてみれば、芽子にとって城田が何なのか表現のしようがないのだから。
(友達――いや、違うでしょう)
(知り合い――それよりは、付き合いが深いよね)
(先輩――間違ってはいないけど、それを言ったら何の先輩って聞かれそうだし……)
(彼氏――……そんなわけないって!! 何それ!!)
 最後に挙がった一つに芽子は何故か赤面する。そして、それを掻き消すように一人ブルブルと頭を振る。
 別に……ここは嘘でも“友達”と言っておけばいいところなのだが、つい真面目に考えてしまうのが芽子なのである。
「何? 言えないような人なの? だったら、余計気になるなぁ」
 それは考え込む芽子に対し、伊沢が絶対に逃がしはしないとばかりに、更なる問いを重ねてきた時だった。
「正解は、仲良し咲ちゃんとその仲間です」
 そう答えたのはいつのまにやら芽子の後ろに立っていた咲である。
「さ、咲ちゃん!?」
「今日の芽子のデート相手、実はわたしがその一人なんですよ。伊沢さん」
 咲は続けて返答をしながら、突然の事態に驚く芽子にはそっと目配せをする。
 いいからわたしに任せなさい――と。
「あ、なんだ小見山さんだったの? だったら芽ちゃんもそう言えばいいのに。ちなみにそれって、俺も参加可能?」
「残念。それは無理な相談です。今日は女友達みんなで女子会なんですよ。というか、彼氏や男に対するあーんなことや、こーんなことを愚痴る会。参加したら、伊沢さん明日から絶対女性不信になりますよ?」
 咲はフフッと不敵な笑みを見せる。
「おっと、それは勘弁。じゃあ、今晩は諦めるとするか。……芽ちゃん、次こそ絶対に行こうね。楽しみにしてるから」
 伊沢は案外簡単に引くとバイバイと手を振り、周囲に退社の挨拶をして帰っていった。
 芽子はそんな伊沢の背を見送りながら、申し訳ないことをしてしまったと思いながらも安堵の表情を見せる。


 ◆◆◆


 フロアを出てすぐにエレベータに乗り込んだ伊沢は、行き先階のボタンを押して静かに溜息を吐く。
「やっぱり駄目だったか……」
 断られた理由は分かっている。
 ピンクの付箋――それが今日は付いていたから。いや、今日だけじゃない。前回も前々回もそれが付いていた。というより、伊沢もそれを分かっていて芽子に誘いを掛けているのだ。
 一体、彼女がどんな断りの文句を並べ立てるのか。そして、城田がどんな反応をするのか。
 ちなみに、一番最初は実家の母親が来ていると言って断られた。前回は体調不良。そして三回目となる今回は……
(今日こそ、ボロが出ると思ったのになぁ)
 我ながら今日は良いところまで行ったと伊沢は思う。
 芽子が言葉に詰まり完全に城田の方を見たのを伊沢は気付いていた。もちろん、あの城田は我関せずという状態であったが、もう少し押せば絶対に芽子からボロが出たはずだ。
 なのに……間一髪のところで、今日は咲という邪魔が入った。
 恐らく咲はあのピンクの付箋の意味を知っているのだろう。だから、今日の“女子会”というのも多分、嘘。伊沢を上手に諦めさせるための嘘。
(さて、どうしたものかね……)
 伊沢はエレベーターの下降と共にガラスの外で流れる夜景を見ながら、独り思案を巡らせていた。


★*★*★*★*★*★*★*★



 伊沢の退出後、芽子に先に更衣室へ行くよう促した咲は、一度自らの席へと戻り書類を何枚かまとめて城田の元へと向かう。
 それはもちろんカモフラージュ。城田に業務上の用事があると見せかけるためのもの。
 既に終業時刻を過ぎたとはいえ、まだフロア内には人が残っていることを咲は考慮したのだ。
「城田さん、この件ですけど……」
 咲は周囲に聞こえる声でそう言った後、一気にボリュームを下げる。
「まだ手出してないんですね、野崎さんに」
 城田は咲の一言に、今までパソコンのキーボード上を滑らせていた指を止める。そして、その眉根に皺を寄せる。
「だったら何だ?」
「別に? ただ、そのうち誰かに持って行かれても知りませんよってことです」
「アレにか?」
 城田は敢えて名前を挙げずに、目線だけで伊沢の席を示す。
 伊沢の予測通り、城田は先ほどのやりとりを全て聞いていた。もちろん、聞いていない振りをして、だ。
 すると、咲はクスリと笑いを零した。
「さぁ、それはどうだか」
「……どういうことだ?」
「あの子、意外と男受け良いんですよ。基本的に庇護欲をそそるっていうか……分かりますでしょう? だから、城田さんが手を出さないなら、わたしがあの子に誰かを紹介するかもしれませんよ?」
「…………」
 城田が返事をしないのを確認した咲は、彼の目の前に広げたカモフラージュの書類をまとめる。
 そして、
「いい歳をした女が男と曖昧な関係を続けていても、何一つ良い事なんてありませんからね。時間の無駄です」
 それだけ言うと、「では、そういうことで」と言い添えて、咲は踵を返した。
(言われなくても分かってるさ……)
 城田はその後ろ姿を見送りながら、拳をギュッと握りしめた。

* 好敵手ライバルの始動 1 *

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