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* 好敵手 の始動 2 *
「咲ちゃん!!」
更衣室へ入ると、既に着替えを済ませた芽子が鞄を片手に帰り支度万端の体勢で咲を出迎えた。
「あら、まだいたの? 先に帰って良かったのに」
「帰れないよ。だって、咲ちゃんに助けてもらったし、ありがとうってまだ言ってなかったし」
「でも、早く帰らないと……今日は彼と約束してるんでしょう?」
ロッカーを開けながらそう言った咲に、芽子は思わず目を丸くする。
咲は一応、周囲にちらほらといる他の女子社員を気遣って城田の名前は出さない。
「あの……咲ちゃん? わたし、今日……その……約束してるって教えたっけ?」
芽子は瞬時に記憶を辿るが、今日はその話を咲にした覚えはない。
すると、咲は着替えの手を止めて芽子の鼻をプニッと押しつぶした。突然の事に芽子は、ふぐぅ……と間抜けな声を出す。
「そんなの、言わなくたって分かるわよ。だって、芽子今日は夕方からそわそわしてたもの。表情筋弛緩させて、嬉しそうな顔しちゃってさ」
「……え、えぇ!? そうなの!? そんなことないよ!?」
必死で否定する芽子が何だか可笑しくて、咲はフッと鼻先で笑う。
「でも、本当は嬉しいんでしょ?」
咲がそう問えば、
「うん……まぁね」
芽子は少し頬を赤らめながら素直に認める。
その反応に、今度は咲が少し驚く。
もしかして、これは城田云々の話よりも前に、芽子が既に城田を好きになったのだろうかと……――
それならそれで、話は随分変わってくる。数分前に咲が城田を脅したのも、まるで意味が無くなるというものだ。
が、
「だってね、一緒にいるとホントよく眠れるの。落ち着くっていうか、安心するっていうか……何でか分からないけど、とにかく幸せな気分に浸って眠れるんだよ。だから、最近、来ても良いよって言われる時は嬉しくて……そういうの、やっぱり顔に出ちゃうのかな?」
芽子から返ってきた言葉に、咲は思わず深い溜息を吐きそうになる。
そんな咲などお構いなしに芽子は、
「わたしも咲ちゃんみたいに、ポーカーフェイスの練習しようかな? やっぱ、そうしないと周りにもバレちゃうよね? そうだ、手っ取り早くマスクしようかな?」
素っ頓狂な話を始める。
あまりに焦れったくなった咲は、思わず問いかけてみた。
「ねぇ芽子、あんたさ……彼と一緒だと何でよく眠れるか、安心するか分かる?」
すると芽子は、うーんと首を捻った。
「何でだろうね? わたしもよく分からないんだよね。でも……もしかしたらあの人、何か未知なる力があるのかもしれない。ほら、オーラって言うんだっけ? 最近テレビでよくやってるヤツ。それとも気だっけ? 手とか体の一部から、うわぁ〜って癒しの力とか出しちゃうの!! きっとそうだよ」
最終的にやや興奮状態で持論――むしろ、妄想を展開しだした芽子に対し、咲は駄目だこりゃとばかりに今度こそ盛大な溜息を吐いてしまう。
そして、
「あのね、芽子それって…………」
そう咲が言いかけた時、芽子の鞄の中でスマートフォンがバイブレーションで着信を告げる。
「あ、ごめん咲ちゃん……電話だ。じゃあ、今日はありがとね。また明日。バイバイ!!」
芽子はそう言うと、そそくさと更衣室を出て行った。
やはりその背中はどこか浮き足だっていて嬉しそうで――聞かずとも、着信の相手が誰であるのか咲には分かる。
「だからそれって……好きって事じゃないの? 本気で気付いてないわけ?」
咲は既に消えた背中に、先ほど言えなかった続きを静かに独り言ちた。そして、「いっそ超能力が使えたら、あの人も苦労しないでしょうよ」と心の中で添えた。
★*★*★*★*★*★*★*★
就寝前、既にベッドにその身を横たえ、ヘッドボードに寄りかかって本を読む城田。
芽子はその隣に滑り込んでスマートフォンの画面と睨めっこをしている。そんな彼女は、もう相当に眠いのであろう、先ほどから何度も欠伸を噛み殺している。目尻にはその余波で涙も溜まっている始末。
「まだ寝ないのか?」
「はい……ちょっと…………」
城田の問いに、芽子は画面を凝視したまま上の空の返事をする。
「急ぎのメールか何か?」
城田が重ねて問えば、
「えぇ、まぁちょっとスケジュールの調整を……」
芽子は答えながら数回目の欠伸を、ふあ、と噛み殺す。
「スケジュール?」
「今日帰り際、伊沢さんにご飯に行こうって誘われたんですよ。実は、わたしもう今月三回も伊沢さんのお誘い断ってて……いい加減失礼だと思って調整してるんです」
その時、城田はわずかに眉をひそめる。
引っかかったのは――今月三回――その頻度だった。
今日の会話を記憶の中から呼び起こせば、芽子が何度か伊沢の誘いを断っているのは分かった。しかし、それがまさかそんなにも多いものだとは思ってもみなかったのだ。今月はまだ始まって十日、つまり三日に一回は誘っている計算である。
確かに最近、伊沢がやたらと芽子にちょっかいを出しているのは知っていたが…………
もはや余裕を見せてる場合ではないかもしれない――そんな焦りが城田を一気に支配する。
それも無理はない。
伊沢がただ芽子をがむしゃらに誘っているだけならまだしも、実際問題、芽子がそれに応えようとしているのだ。
基本、城田の家に来る時の芽子は好きなテレビもさっさと切り上げてとにかく睡眠に重きを置く。城田が少しでも何かをしていようものなら「早く寝ましょうよ」と催促するほどに。
しかし、それが今日に限っては、欠伸を噛み殺してまで頑張って起きているのだ。それも、伊沢と食事に行くスケジュール調整のために。もう一つおまけに、それが今ここで、城田の隣で――――
城田の機嫌を悪くするにはそれだけで十分だった。
今まで読んでいた本を静かに閉じた城田は、それをサイドボードに置く。
そして次の瞬間、彼は芽子の手からやや乱暴にスマートフォンを掴み取った。
「…………え?」
芽子の口から驚きの声が漏れる。
「し、城田さん……?」
今ひとつ事情が飲み込めない芽子を余所に、城田はスマートフォンの液晶画面をオフにし、先ほど本を片づけたサイドボードに置く。
芽子はただその一連の動作を見守るよりない。
すると、
「もう寝る時間……だろう?」
今まで無言だった城田が静かに言葉を紡いだ。
「いや、そうですけど……でも、わたし伊沢さんにメール送らないと」
「伊沢だったら明日も会社で会えるだろう?」
「そうですけど、でも……」
芽子は答えながら身を乗り出し、スマートフォンに手を伸ばそうとする。
「予定を伝えるのは早い方がいいですし、それに伊沢さんも…………」
「野崎さん……」
城田の低い声が、言いかけた芽子の言葉を止めさせる。
次の瞬間……――
スマートフォンへと伸ばした芽子の手がものすごい外力で引かれる。
「きゃ…………」
そんな可愛らしい声が芽子の口から漏れ出た時には、彼女の体は既に城田の腕の中で……
「え……? ちょっ……し、しし城田さん!?」
突然のことに慌てふためく芽子。
すると、そんな彼女の頭上から聞こえたのは、
「野崎さん、ここに何しに来てる?」
明らかに怒気を孕んだ城田の声だった。
*