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* 好敵手 の始動 3 *
「……それは、もちろん寝に来てますけど…………」
明らかに機嫌の悪そうな城田に、芽子がそう怖ず怖ずと答えたのは数拍の間をあけてからだった。
「だったらもう寝ろ。明日も仕事だ」
城田は相変わらず低い声で言うと、芽子を抱きしめる腕に力を込めた。
「あ……あの……、城田さん……どうしたんです?」
不可抗力で城田の胸に顔を埋める形となった芽子は、様子を伺う様に尋ねる。
「別に」
「いや、でも……城田さん、怒ってません? わたし……何か、しましたか?」
芽子はようやく顔だけ出して再び城田に問いかけた。
その時、彼の視界に入った芽子の顔――わずかに怯えているような不安そうな瞳。それで城田はふと我に返る。
自分は一体、何でこんな子供染みたことをしているのだ――と。
これでは、今までせっかく築き上げてきたものを無駄にするだけだ。
「城田さん……?」
「別に」
再び問いかけた芽子に、城田は先ほどと同じ答えを返すと今まで芽子を拘束していた手をフッと離した。そして、そのまま彼女に背を向けてベッドへ潜り込む。
落ち着け――そう自身に言い聞かせながら。
これが、この時の城田にとって精一杯の冷静さであった。これ以上芽子の温かさを肌に感じていれば、焦燥感に駆られた自分が感情のまま何をしてしまうのか分からなくて――それが自身でも、怖くて。
城田は芽子に背を向けたまま、ギリッと奥歯を噛みしめた。
一方で、突然抱擁を解かれた芽子は、もちろん何が起こっているのか意味が分からない。
それでも何となく、城田に突き放される様に開放されてしまったことが寂しいような心許ないような――そんな気持ちを抱えながら、目の前にある彼の広い背を見つめていた。
いつもは安心感を覚えるその背も、今は何故か芽子の不安を煽る。
(城田さん、どうしちゃったんだろう……? 何で怒ってるんだろう?)
考えても分からない問いだけが芽子の脳内を支配する。
それから数分後――
「野崎さん、起きてるか……」
城田は相変わらず背を向けたまま、後ろにいる芽子へ呼びかけた。
それは、そう――意を決して。
少しの間をおいて幾分落ち着きを取り戻した城田は、もうこの際芽子としっかりと話をしようと思ったのだ。
そんな彼の脳裏を支配するのは咲が残した言葉。
『いい歳をした女が男と曖昧な関係を続けていても、何一つ良い事なんてありませんからね。時間の無駄です』
咲に言われずとも、この芽子との関係がそろそろ潮時なのだと城田は感じていた。
だから、今ここで動かなければ何も変わらない――いや、変わらないならそれでいいが、そうではなく、このままでは城田にとって悪い方へ状況が変化するような、そんな気がして。
それ故、もはや全てを芽子に話そうと城田は決めたのだ。
「野崎さん、話があるんだ」
城田は再び芽子に声を掛けながら、今度はその上体を起こす。
そして、芽子を見やれば…………
「野崎さん……?」
そこには、既に寝息を立てている彼女の姿があった。
携帯電話と睨めっこをしている時、あれだけ欠伸をしていたのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、もう夢の中の住人に成り果てている芽子。
城田はそんな芽子を起こそうとその肩に手を伸ばす。
が、
伸ばしかけて途中でその手を引いた。
(せっかく寝付いたのに……起こしてまで話す事じゃないか)
そう思ったから。
城田は一つ溜息を吐くと再びその身をベッドへ横たえる。
そして、自身も静かに眠りについた。
★*★*★*★*★*★*★*★
翌朝の二人はいつもと少し違った。
ほとんど会話も交わさず、視線も合わせず……どこか余所余所しかった。
それはそう――“気まずい”という言葉がピタリと当てはまる様な状況。
だが、出勤前に城田は芽子を呼び止めた。
「野崎さん、今夜かここ二、三日……仕事の後に少し時間を作ってくれないか?」
それはいつもとは異なる城田の誘い文句だった。
いつも彼が芽子を誘う時は、今夜も来るのかとか食事はどうするとかそんな誘い文句を笑顔さえ見せて言うのに、今日の城田の表情はとても固かった。
それに何かを察した芽子が「何ですか?」と問えば、
「話があるんだ。大切な話」
案の定、やはりいつもとは違う言葉が返ってきた。
その時もやはり城田の表情はいつになく真剣で、その目はとても鋭かった。それで何だか無性に嫌な予感がした芽子は「何のお話ですか?」とすぐに尋ねたが、城田は「ゆっくりと話がしたいから、時間を空けて欲しい」と答えるだけだった。
お蔭で、芽子はその日朝から悶々とするハメになった。
伝票を打ち込んでいても、頼まれた書類を作っていても、ミーティングをしていても……考えるのは、夕べから今朝にかけての城田のおかしな様子ばかり。そして、嫌ほどリフレインするのは話があると言われた時の彼の思い詰めた様な表情。
芽子自身、自分が城田に何をしてしまったのか分からないために余計に考えてしまう。
そして今もまた、芽子は上から頼まれた膨大な量のコピーを延々とこなしながら、答えの出ない考え事をしていた。カシャーン、カシャーンと単調な音がするだけのこの空間は、考え事をするには都合がよかったのだ。
(やっぱり昨日……逃げちゃ駄目だったんだよね…………)
芽子が思うのは夕べのこと。
昨晩城田が芽子に背を向けた後、しばらくして彼が芽子に呼びかけた時――実は芽子は起きていた。
本当は最初に呼ばれた時、芽子は返事をしようとした。だが、その後すぐ「話がある」と言った城田の声があまりに重くて真剣で……気づいたら寝たふりをしていたのだ。
流石の芽子だって、あの状況であのタイミングで寝られるわけがない。
ただ、城田の話を聞いたら後悔する様な、取り返しが付かなくなる様な、そんな気がして、気が付いたら目を閉じていたのだ。城田が諦めるまでただじっと、息を潜めて寝ているふりをしていた。
しかし、その時ばかり逃げたところで実際は問題を先延ばしにしただけだった。
今朝再び、今度は逃げようもない状況で芽子は城田に「話がある」と言われてしまった。
今度は聞こえないふりもできなくて、それならいっそその時聞いてしまいたかったのに……城田は何も言ってくれなかった。
だから、芽子は先ほどこのコピー室に入る前に例の付箋をパソコンのディスプレイに貼ってきた。色はもちろん黄色。
だが、それはいつもとは意味合いが違う。いつもは“今夜行っても良いですか?”の合図。だけど今日は“今夜時間を空けます”の意味。
あとは城田がそれを“分かった”を意味するピンクに貼り替えてくれるのを待つばかりだ。
芽子は機械から単調に吐き出されるコピー用紙を見つめながら大きな溜息を吐いた。
その時だった。
「夕べ、よく寝たんじゃないの?」
突然聞こえた声に振り返れば、いつの間にかそこには咲が立っていた。
「朝からどうしたのよ?」
咲は芽子の隣に立つと、休止状態のコピー機を立ち上げ、必要部数と環境を操作パネルで設定し始める。
「自覚あるか知らないけど、すっごい溜息の数よ? それに、お通夜かお葬式みたいな暗い顔しちゃって……城田さんと、なんかあったの?」
咲は気を遣って最後の部分だけボリュームを落として尋ねた。
それに応えるのは芽子の大きな溜息。
「ほら、また。別に言いたくないなら無理に聞かないけど、言ったら少しは溜息も減るんじゃない?」
咲がそう言ってコピー機のスタートボタンを押すと、芽子はそんな咲を見ながら「夕べね……」と静かに話し始めた。
*