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* 彼と彼女のすれ違い 1 *

 あれから、伊沢に会議室の準備を頼まれた芽子は椅子と机を並べ替えたり、資料を数えて整えたりと申しつけられた用事を淡々とこなしている。
 そんな中でも意識に止めるのは……広い会議室の前方で上司である課長と会議の内容を詰める城田の姿。
 今日はお互いに仕事が合わず、今朝家を出てから初めて同じ空間に立つ二人。
 いつものこんな日なら、芽子はこんな風に城田の姿を見れば落ち着く。でも今日は……
(なんで男の人が好きな人、好きになっちゃうんだろうな……)
 そんな思いを含めた複雑な気分が芽子を支配する。
 そして続けて思うのは城田の言う“話”のこと。一体何の話だろう、という先ほどまで嫌ほど考えていたことを芽子は再び考える。
(もしかして……恋人が出来たからもう一緒に寝るのは無理、とか?)
 ふと、芽子の中で一つの妄想が膨らむ。
(それとも、やっぱり隣で寝るのは男の方が良いからもう来ないでくれ、とか?)
 別の妄想も膨らむ。
 陰鬱な気分の時、人はろくでもないことを考える。だがそんな時に限って、両方ともあり得そうだと芽子は思う。そのくらい深刻な話でなければ、改めてあんな真剣な顔で話があるなどとは言わない。
 それは、芽子が更に妄想を膨らませかけた時だった。
「野崎さん。そこ、そんなに椅子入らないよ!」
 掛けられた声に気づいてみれば、芽子は二席用の会議机に三席椅子を押し込んでいた。
 どうやら考え事に夢中になっていたらしい。
 気づけば前から五つほど、椅子をぎゅうぎゅうに詰め込まれた会議机が見える。
「え? あ!! 伊沢さん、すみません!!」
 伊沢は「大丈夫だよ」と椅子を一席ずつ除いてくれる。
「どうした? 今日は朝から調子悪いね。顔色も冴えないし……」
「いえ、別に。何でもないですよ?」
 やや俯き加減に誤魔化そうとする芽子の顔を、伊沢は「そう?」と覗き込むように見る。
「もしかして……また最近眠れてない?」
「え……?」
 伊沢の突然の問いに芽子は声を漏らす。
 芽子は伊沢に不眠の話をした覚えは無いのだが……
「不眠っぽいんだろう? ……ほら、少し前の飲み会で小見山さんに愚痴ってなかったか? 誰かと一緒なら寝られるとかなんとか」
 言われて芽子は思い出す。確かに咲にそんな話をしたと。
 そして忘れもしない、あの日の夜、帰り道に城田が……
『抱き枕、してやろうか?』
「抱き枕、してやろうか?」
 芽子の記憶に残る言葉と、別の声が重なる。
 言ったのは……そう、今目の前にいる伊沢だった。
 驚きに何も言えない芽子に対し、伊沢はニコリと笑顔をくれる。
「あ、今引いたでしょ? 別に変な下心で言ってる訳じゃないよ? 俺のこと、変態とか思うなよ?」
 そして戯けて見せた。
 城田とは正反対のそれ。
 あの時城田はとても真剣だった。どちらかと言えば、芽子の方が戯けて冗談だろうと笑い飛ばそうとしたくらいだ。
 確かそう、この時に芽子は例の性癖のカミングアウトも受けたのだった。
 そんな風に芽子が物思いに耽っていると伊沢が言葉を重ねた。
「これでもさ……一応心配なんだ」
 伊沢は先ほどとは打って変わって真面目な声で語りかけた。
「少なくとも、そんな元気の無さそうな顔は治してやれると思う」
 それは、伊沢が徐に芽子の頬に触れようとしたその時だった。
 パシッと乾いた音がしたかと思えば、
「伊沢、ちょっといいか」
 城田がいつの間にやら傍にいた。
 その手に持たれているのは――芽子に伸ばされたはずの伊沢の腕。
「何です? 城田さん」
 伊沢は何事もないよう答えながら城田の手を振り払う。
 しかし、その目には邪魔をされたことを抗議するような光が見える。
「課長がお前に話があるそうだ」
「あ、そうだ……それならちょうど、俺も課長に話があるんでした」
 伊沢はそう言うと「芽ちゃん、またあとで」と付け添えて会議室の前方にいる課長の下へと走っていった。
 後に残ったのは城田と芽子……――
「仕事中だろう?」
「え?」
 城田の低く太い声に芽子は思わず聞き直す。
「伊沢と無駄話をしてる暇があったら、さっさと与えられた仕事をこなすべきじゃないのか?」
「……あ、はい……すみません」
 城田から与えられた叱責に、芽子は頭を下げて謝る。
 謝りながら、芽子は城田の機嫌がいつになく悪いことを察する。昨晩も相当に悪いと思ったが、今のはその時以上だ。
 もちろん――城田の機嫌が悪いのは他でもない、伊沢のせいだ。伊沢が芽子に手を出したのが単に気に入らないのだ。
 だが、そんな事情を知る由もない芽子は自分が悪いのだと思い込む。
(わたし……また怒らせちゃった)
「あの……すぐ、終わりにしますから。……申し訳ございませんでした」
 芽子は再び謝ると、元のように会議の準備を始める。
 明らかに表情をこわばらせた芽子に対し、城田は自分が感情のままに彼女に八つ当たりをしたことをすぐに悔いる。そして、フォローの言葉をかけてやらなければと思うが、今は何か口を開けば余計なことを言ってしまいそうなそんな気がして……城田はギュッと手を握りしめ芽子の元を去った。
(城田さん……すごく不機嫌……)
 芽子はそんな城田の背を見送りながら、心の内で大きな溜息を吐いた。


 ◆◆◆


 それは会議の準備を終えて伊沢と共に一旦席に戻ろうとした途中だった。
「あ、芽ちゃん……悪いんだけど、総務に行って来て貰えないかな?」
 席までもう数メートルというところまで来た時、伊沢が思い出した様に言った。
「総務ですか?」
「うん。会議に使う物、頼んであったのに取りに行くの忘れてたんだ! 俺、もう一部別の資料を用意しないといけないから、悪いけど行ってきてくれないかな?」
「はい。構いませんよ。総務で伊沢さんの名前を言ったら分かりますよね?」
「それでオッケー。そしたら、直接会議室に届けてくれる? 俺は資料持って、先に行って待ってるから」
「はい、分かりました。じゃあ、また会議室で……」
 芽子はそう言うと小走りに総務へ向かった。
 その姿を伊沢は「頼んだよ」と手を振りながら見送っていた。
 そして、彼女の背が見えなくなった頃……
「ごめんね、芽ちゃん」
 呟く様に言いながら浮かべるのは、何とも言い難い不敵な笑み。
 伊沢は今まで抱えていた資料を置くと芽子の席へと進んだ。
 そんな彼の視線の先にあるのは――パソコンのディスプレイ隅に貼られたピンク色の付箋。
 先ほど、伊沢の目にはすぐにこれが入ってきた。
 だから、伊沢は芽子に用事を押し付けたのだ。これを芽子に見られては都合が悪いから。
 伊沢は周囲の視線を窺いながらそれを何の躊躇もなく剥がした。
 もちろん、伊沢はこの付箋の意味を知らない。だが、これまでの芽子の様子を見ていればピンク色が芽子と城田にとって良い意味を持つであろう事は容易に想像できたのだ。反対に、水色があまり良くない意味を持つであろう事も。
 だから伊沢は何の迷いもなく今剥がした付箋の代わりに水色のそれを貼っておく。
(そんな簡単に上手くいったら困るんだよね……)
 その時、伊沢が思い出すのは先ほどのコピー室でのこと。
 帰ってこない芽子を迎えに行った時、伊沢は芽子と咲の話を聞いてしまった。
 壁越しであったため、また最後の方しか聞けなかったために話の完全な内容は分からなかった。だがそれでも、芽子と城田が今何か転機を迎えていることは把握できたのだ。
 それも、このまま指をくわえて見ていれば二人が幸せな結末を迎えるようなそんな転機……――
(悪いけど……こっちも邪魔させて貰いますよ、城田さん)
 伊沢は再び不敵な笑みを漏らすと、何事も無かったように資料を抱えその場を後にした。

* 彼と彼女のすれ違い 1 *

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