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* 彼と彼女のすれ違い 2 *

 伊沢に頼まれた物を会議室に届けて芽子が元の様に席へ戻ると、何だか皆が慌ただしく動いていた。
 厳密に言えば、それは芽子達の隣に位置する咲達の係。
「……どうしたの?」
 芽子はその係に所属する後輩の女の子を捕まえる。
「実は、ついさっき小見山さんの親御さんが倒れたって連絡が入って……」
「え?」
 悪いことというのは突然起こるものである。
 言われてみれば、咲の姿が何処にもない。
「小見山さんは?」
「さっき帰られて、すぐご実家に向かうそうです。それで、小見山さん今大きな仕事を一つ担当してたんですけど、その引き継ぎにみんなパニックなんですよ。しかもそれが結構山場だったので」
 咲のことだからきっと全ての仕事はきちんと整理されているだろう。それでも、誰かの担当していた者を突然別の者が引き継ぐというのはそう簡単ではない。
「野崎さん、すみません。わたしもフォローに入らなくちゃなんで……」
「あ……呼び止めてごめんね」
 後輩は「失礼しますね」と言うと、手に持っていた書類を確認しながら小走りにその場を去った。
(咲ちゃん……大丈夫かな。おじさんと、おばさん……どっちが倒れちゃったんだろう)
 芽子は素直に心配をする。近しい友達の両親なのだから、それも当たり前のことだ。しかも、ちょっと前に芽子は咲の実家に遊びに行ったことがあり、その時に両親とも会っているから余計に心配になる。
 しかし一方で、先ほどコピー室で中途半端に終わってしまった話の続きが芽子は気になっていた。
(あの時、咲ちゃんは何が言いたかったんだろう……)
 後で休憩時間に聞こうと思っていたそれも、叶わなくなってしまった。
 それから芽子が席に着くと、あるものが目に飛び込んできた。
「あ……」
 芽子は思わず声を漏らしてしまう。
 芽子が見た物――それは水色の付箋。芽子にとって、意外なものだった。
 そもそも時間を空けるよう求めたのは城田。それに応えて芽子は黄色の付箋を貼った。だからもちろんピンク色に貼り替えられると芽子は信じていたのだ。
 だが、それは何度見ても水色の付箋。
 いつもならそれを見ても少し残念に思うだけ。しかし、今日は何だか無性に胸がざわついていた。
 芽子は再び、コピー室にいたときのような深い溜息を吐いてしまった。


 ◆◆◆


「ただいまー」
 資料を片手に伊沢が帰ってきたのは終業まであと一時間を切った時の事だった。
「会議、無事終わりましたか? お疲れ様です」
「ついさっきね。長くて参った。城田さん以上の上はまだかかるみたいだけど、俺は運良く解放。こういう時は下っ端が得だよな」
 伊沢はそう言ってニッと笑ってみせる。
(そっか……城田さん、まだ終わらないんだ。会議が長引くの分かってて水色の付箋貼ったのかな)
 伊沢の情報を基に芽子はなるべく良い方に解釈をする。
 そうでもしないと、どんどん気分が滅入りそうだったから。
「……ん………野崎さん!」
「……は、はい?」
 すっかり物思いに耽っていた芽子は、いつの間にか隣にいた伊沢に気づかなかった。
「ホント、今日は調子悪いみたいだね?」
「す、すみません……ちょっとボーッとしちゃって」
「今週まだ火曜日なんだから頑張らなくちゃ」
「はい。気を付けます……」
 それは芽子がすみませんとぺこりと頭を下げた時だった。
「というわけで、今夜空いてる? 飯食いに行こう」
 伊沢が誘いを掛けた。
「今日……ですか?」
 突然のことに芽子の言葉が澱む。
 厳密に言えば今夜は空いている。いや、空いた。城田の水色の付箋によって。
 しかし、だからといって誰かと出かける気分かというと決してそうではない。家に帰って一人で帰っても悶々と考え込むことは目に見えていたが、それでも芽子の気分は乗らないというのが正直なところだ。
「あの……」
「今夜こそいいだろう? 俺もうこれ以上振られたら心が折れそう……」
 芽子の言葉を遮って伊沢が少し傷ついた様な、シュンとした表情を見せる。
 もちろんこれは伊沢の計算。自分が困った顔をすれば、芽子の心が動かされると。
 どちらかと言えば、芽子は物事をきっぱりと拒否するタイプではない。だからこう言う時は押したもの勝ちだと伊沢は考えていた。
「あの、今日は……」
 やっぱり無理です――そう芽子が伝えようとした時、
「伊沢、至急頼みたいことがある」
 いつの間にか戻っていた城田が、書類を片手に伊沢を手招きしていた。
 伊沢は一瞬、誰にも分からないように顔を顰めたが、「今夜、空けてね」と芽子に残してすぐに城田の元へと向かった。
 そんな伊沢を見送った芽子もまた、その後すぐに上司から呼ばれて席を立った。


 ◆◆◆


 終業時間を回った後、一仕事終えた芽子が席に戻ると城田の姿はなかった。
 ただそれは、何かで席を外しているという風ではなく、机の上やらその周辺の様子が既に主の帰宅を暗示していた。
 芽子自身も帰りの支度をしようと、机の下に収納してある鞄を取り出すと、中でスマートフォンがメールの受信を伝えていた。
 すぐに受信ボックスを開くと、すぐに城田の名を見つけた。他にも未読の物があったが、芽子は脇目もふらずに城田からのメールを開く。
 画面上に表示されたのは……
『件名:お疲れ様 本文:申し訳ないが、明日から急遽出張になった。金曜の夜には戻る予定。その後でまた連絡する』
 ただそれだけだった。
 元々愛想のあるメールを送る人ではないが、今日のそれはいつにも増して業務的なものだった。それがまた芽子の心をざわつかせる。
 芽子はすぐさま返信ボタンを押し、急な出張お疲れ様です、と打ち、続けて、金曜日の夜ならうかがってもいいですか? とか、その時にお話ができますか? 等色々と文字を打ち込んだ。
 しかし、いざ送信ボタンを押す段になり、芽子はそのほとんどを削除した。
 結局、
『急な出張お疲れ様です。またご連絡お待ちしてます』
 とだけ返した。
(今は、待つことしか……できないよね)
 芽子が送信完了を確認してから再度受信ボックスを確認すると、伊沢からもメールが入っていた。
 開くとそこには、城田のものとは対照的な、絵文字がちりばめられた文章が綴られていた。先ほどの城田の事務的なメールと嫌でも比較してしまう。
 句読点だけの仕事相手に送るようなメール――……
 芽子の中で一度収まっていた嫌な想像が膨らみ始める。
 それを払拭するように、芽子はフルフルと頭を振って、伊沢からのメールを読む。
 本文には先ほどの誘いが具体的に書かれており、会社近くにあるお店のホームページアドレスが添えられていた。また、伊沢自身が先にそこへ行って待っているという内容も書かれていた。
 芽子は少しだけ躊躇した後、
『了解です』
 と返信した。
 それからすぐ、マナーモードにしてあったスマートフォンがリズムを刻んで震え、メールの受信を伝えた。
 芽子は一瞬、もしかして……と一縷の望みを持ったが、それが叶うわけもなく、液晶画面に表示されていたのは、伊沢からの『待ってるよ』というワクワク感を表す顔文字の付いた返事だった。
「返事なんて、来るわけないよね……」
 芽子はスマートフォンを鞄にしまい、そのままパソコンをシャットダウンして席を立った。

* 彼と彼女のすれ違い 2 *

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