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* 彼と彼女のすれ違い 4 *

 芽子が席を立って、数分。
 ブブ……という静かな機械音に伊沢は気づいた。
 音の出所を探すと、それは芽子の座っていた場所からだった。
「あれ、置いて行っちゃったんだ」
 そこには芽子のスマートフォンがあった。
 しばらく鳴っていたので電話かと思い伊沢がそれを手に取ると、画面にはメール受信のお知らせが出ていた。
 そこには送信者の名前――小見山 咲と、その下には文章が三行ほどプレビューで表示されていた。
『ちょっと色々あって今実家。とりあえず、今日コピー室で言えなかった続き。城田さんの……』
 文章はそう始まっていた。
 不可抗力でそれを読んでしまった伊沢は、フンと鼻を鳴らす。そしてそのままスマートフォンのロックを解除する。
 パスコードを求められたので、芽子の誕生日を入れてみる。すると案の定、ロックは簡単に解除された。
「無防備だなぁ、芽ちゃんは。こんな簡単なコードじゃ駄目だって」
 伊沢はそれからすぐにメールの受信ボックスにアクセスし、咲から来たメールの本文を確認する。
 そこには、最初に見たプレビュー表示からだいたい予測されたようなことが綴られていた。
「困るんだよねぇ……、咲チャン。今、凄くいいところだから邪魔されたくないんだ」
 伊沢は静かに独りごちる。
 メールの最後に『実家でちょっとバタバタしてるので、返事はいらないからね』と書いてあるのを確認し、伊沢は少し考え事をし、そのあと画面操作を始めた。
 そして、数回の操作の後、スマートフォンの画面で文字が問う……
『このメールを削除しますか? はい いいえ』
 伊沢が押すのはもちろん『はい』の選択。
『削除しました』
 その画面を確認してから伊沢はホームボタンを押し、液晶画面を切ったスマートフォンを元のように芽子の席に置く。
 いずれバレるかもしれないが、少しくらいは時間稼ぎになるだろうと伊沢は思った。
 芽子が席に戻ったのはそれからすぐのことだった。


★*★*★*★*★*★*★*★



 時間が十時を回る頃、芽子と伊沢は店を出た。
「どうもありがとうございました。ご馳走になっちゃってすみません」
 芽子がぺこりと頭を下げると、伊沢はいいよと手を振る。
 会計の際に、芽子が自分の分だけでもと財布を取り出したところを伊沢が止め、支払いを全て負ってくれた。
「今日は俺が無理に誘ったようなもんだし、気にしないで。それに……少しくらい良いところ見せたいからさ」
 屈託のない笑顔を見せる伊沢に、芽子は再度すみませんと軽くお辞儀をする。
「ねぇ芽ちゃん、もし気にしてくれるなら、また俺と出かけてくれないかな?」
「一緒に……ですか?」
「そう、今度は休みの日……食事も良いけど、どこか遊びに行こう?」
「…………」
 芽子は返事をすることができなかった。
 それも無理はない。
 城田の気持ちを理解してしまった今、伊沢の誘いに軽く乗って一緒に行くとも言えないし、かと言って、断るにしても添えるもっともらしい理由が今すぐには見つからない。
 まさか間違えても、知り合いの好きな相手と抜け駆けのようなことは出来ません、などとは言えない。
 そんなことを言えば、その知り合いって誰? という話になるし、そこで城田の名前を出すわけにも行かない。
「芽ちゃん……そういうの嫌?」
「いえ、嫌じゃないです。そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「あの……そう! スケジュール。また予定合わせられないと……伊沢さんにご迷惑かけちゃうかな、って」
 芽子はやっとの思いで言葉を絞り出した。
「そんなことなら別に気にしなくていいよ。芽ちゃんの予定を優先してくれればいいから。だから、ね?」
「……はい」
 芽子は少し困った顔を見せながらも、もはやそう返事をするしかなかった。
 誘ってくれてるのも、どうせ社交辞令……そんな風に自分に言い聞かせながら。


 ◆◆◆


 その後、二人は他愛もない会話を交わしながら、いつも通勤で乗り降りをする駅までやってきた。
 お互いに違う線を使っているため、ここでお別れだ。
「それじゃあ、伊沢さん……」
 それは芽子が別れの言葉を口にし始めた時だった。
「ねぇ、芽ちゃん。俺と付き合ってほしいんだけど」
 あまりにもさらりと言われたその台詞に、芽子は返事はもちろん、反応することもできなかった。
(今、伊沢さんなんて言った? もう一軒、呑みに行こうってこと……?)
 芽子が思案を巡らせていると、
「意味が分からないって顔してるね」
 伊沢が言葉を重ねた。
「気づいてると思うけど、俺、芽ちゃんのことが好きなんだ。だから、きちんと付き合ってほしい」
 今度こそ、きちんと聞こえた。いや、聞こえてしまったという表現の方がいいのかもしれない。
 今、芽子はピクリとも動くことができなかった。
 静止――そんな言葉が相応しいのかもしれない。
 芽子は全ての動きを奪われたかのように、ただ伊沢を見つめてしまった。
「今度は驚いたって顔してる。可愛いな、芽ちゃんは。すぐ顔に出ちゃうね」
 伊沢は芽子に柔らかく微笑んでみせる。
「本気だよ。俺は。そうじゃなきゃ、こんな風に芽ちゃんを何度も誘ったりしない」
「…………」
 今度こそ芽子は何も言えなかった。
 しばらくの沈黙の後、芽子がやっとの思いで「あの……」と言葉を発すると、伊沢はそれを遮るように静かに首を横に振った。
「今はまだ返事はいらない。もし断るとしても、一度きちんと考えて欲しいんだ。それに……今断られると、俺の心臓の方が持たないと思うから」
 伊沢は照れ隠しのようにあははと笑うと、「じゃあまた明日。気をつけてね」と、そのまま芽子に背を向けた。
 芽子はそんな伊沢の背を、ただ見つめることしかできなかった。


 ◆◆◆


 伊沢からの告白を受け、芽子の不眠には拍車がかかった。
 芽子が悩むのは告白への返事ではない。“伊沢に告白された”という事実である。
 好きな人の好きな人が思いを寄せるのは自分……典型的な三角関係である。ドラマや漫画で入り組んだ恋愛関係を見ている時は、何だか羨ましいと思ったこともある。でも、いざそこに身を置いてみれば辛いことこの上ない。
 しかもこんな時に限って頼りになる咲は不測の事態で不在である。一番的確なコメントをくれるであろう彼女の不在は、今の芽子にとって本当に痛手だった。さらにその不在の理由が理由のため、芽子から積極的に連絡をすることも気が引けた。それでも何度か芽子は咲にメールを送ろうとしたが、文書を打ち込む前に画面を閉じた。
 咲の他にも、会社で仲良くしている子達はいたが、相談するには城田の性癖を言わなければならない。芽子にすれば、それは何よりも口外してはならないことだと考えていた。
 一方で、会社外の友達に相談するにも、全てを一から説明する気にはなれなかった。

* 彼と彼女のすれ違い 4 *

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