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* 彼の想い彼女の想い 1 *

 気がつくと、芽子は白く無機質な部屋で横になっていた。
 そこが会社の医務室のベッド上であると気づくまでにほんの少し時間がかかった。
 ふと視線を移すと、ベッド周りに引かれたカーテンの隙間から顔を出して覗いている男性がいた。
「お。起きたかな?」
 芽子は一瞬ぎょっとしたが、すぐにその人物を認識した。
碧山あおやま先生……?」
 芽子はその身をベッド上で起こしながら、男性の名を呼んだ。
 彼は、会社の嘱託医を務める碧山あおやま紘務ひろむだった。以前、芽子はこの碧山に頭痛のための痛み止めを処方してもらったことがあったため、すぐに彼だと認識できた。
「気分はどうだい? 職場で倒れたのは覚えてる?」
「少し頭が痛いです。わたし……倒れたんですか? 課長に書類を渡していて、目の前が真っ暗になって…………」
「そう、そこで倒れちゃったみたいね。課長もビックリ仰天だったらしいよ。ちょうど男手が無かったみたいで、課長が君のこと背負ってここまできたんだ」
 芽子は課長のことを思い浮かべる。確か芽子の父より少し年下で、どちらかと言えば体格は良い方だが、成人女性を一人背負うというのはかなりの労力だったろうと想像する。
「部下思いの優しい課長で良かったねぇ。それに、ちょうど僕の勤務日で良かったよ」
 そう碧山に言われて考えてみれば、今日は第二木曜日だった。碧山は自身の開いているクリニックの休診日を利用し、月一回、第二木曜日の午後、会社の医務室で診療を行っている。普段、この医務室には保健師が二名と非常勤で臨床心理士がたまに来ている。今日は碧山のいる当たり日だったというわけだ。
「頭は打ってなさそうだけど、痛みはどの辺? 酷く痛む?」
「いいえ、少しだけです。最近よく眠れてなかったので、そのせいかと……」
 そんな問診のやりとりをしている時だった。
「先生、何サボってるんですか?」
 気がつけば、別のカーテンの合わせ目から、今度は白衣の女性がのぞき込んでいた。
 保健師の三条さんじょう初姫はつきだった。
 芽子は初姫の方が馴染みがあった。以前生理痛が酷くて休ませてもらったこともあるし、ちょっとした怪我で手当てしてもらったこともある。また、職場の人間関係で悩んだときも、しばらく話を聞いてもらったこともあった。
 初姫は芽子より少しだけ年上のお姉さんで、職業柄もあり、いつでもどんな話でも良く聞いてくれた。慣れないうちは少しつんけんしたような対応に怯えるが、ただ裏表がなく、さばさばしていてとてもいい人だ。
「ちゃんと仕事してるんだよ? 野崎さんが大丈夫かどうか、問診中です」
「だったらその問診とその他諸々、わたしがしますので、先生は診察に戻ってください」
「えー。もう疲れちゃったよ……あの人達、全然病気っぽくないし」
「えー、じゃないです。終わったら先生の好きなコーヒー入れてあげます。あと美味しいチョコレートもあります。昨日ちょうど手に入ったんですが、いらないなら別に……」
 初姫がそこまで言うと、碧山は「本当!? やったね。巻いてくるからチョコレート一つ多くしてね!」とまるで小学生の様に言いながら、すぐに白衣を翻して部屋から出て行った。
「まったく、目を離すとすぐ逃げるんだから。ただでさえ、今日は必要以上に自称病気のお客が多くて忙しいのに」
「すみません……」
「貴女はいいのよ。真面目な病人だから。ほら、知ってるでしょ? なぜか碧山先生が来ると突然病気になる女子社員ご一行様。たまに男子社員もいるけど」
 言われて芽子は思い当たる節がある。
 毎月、第二木曜日になると、医務室前にできる行列。その大半は仮病か、大した症状でもない。
 目的はそう、碧山先生だ。碧山先生は、三十代中頃の医師で、ちょっと目を引く容姿に人懐こい性格が相まって、その人気ときたら凄い。独身だという噂が立ってからは尚更に。
「まぁ、変にプライドだけ高い使えないドクターよりいいんだけどね。腕もなかなか良いし」
 初姫はため息混じりに言いながら、これ計って、と芽子に体温計を渡す。
 それは、芽子と初姫が他愛もない話に花を咲かせていた時だった。
「初姫ちゃん、ちょっと助けてー」
 そんな声が聞こえた。
 芽子達のいる処置室と、今碧山がいる診察室はドア一枚でつながっており、声はどうやらそこから聞こえたものらしい。
 初姫は、「今行きます!」と大きく返事をすると、「ちょっと待っててね、あとで血圧も測るから」と芽子に伝えてそのまま小走りで去っていった。
 初姫が出て行ってすぐ、芽子は音の鳴った体温計を脇から取り出すと、数値を確認して枕元に置いた。そして再び、その身をベッドへ横たえる。
 碧山や初姫と少し話していて気が紛れたのか、気がつけば頭痛も少し引けた。倒れた故でのこととは言え、眠れたのが良かったのか、体のだるさも幾分ましになった気がした。
 芽子はそのまま目を閉じ、初姫が戻るのを待つことにした。またこのまま眠れるのなら、寝てしまってもいいと思った。
 が、その時だった。
 廊下側のドアが数回ノックされた。
 芽子は瞼を閉じたまま、特に返事をするでもなくそのまま様子をうかがった。
 再度ノックが聞こえると、今度は扉が開いた。
 誰か休みに来たのだろうと芽子は気にもとめなかった。
 やがて室内を歩き回る足音がし、芽子はふと気配を感じた気がしてその目を開けた。
 カーテンの隙間から視線が合ったのは
「芽ちゃん……」
 伊沢だった。
「目が覚めた? 外回りから帰ったら芽ちゃんが倒れたって聞いてさ。心配で様子見にきたんだ」
「そうでしたか……。ご心配おかけしてすみません」
 芽子は再び体を起こし、ヘッドボードに背中を預けた。
「ねぇ、倒れるほど体調悪かったの?」
「いえ、ちょっと寝不足だっただけです。不摂生ですね……すみません」
「本当に? それだけ?」
「もしかして、そこまで追い詰めたの……俺のせい?」
「……そんな、違いますよ。ほら……わたし、眠れないって言ってたでしょう? 昨日特にそれが酷くて、調子に乗って朝まで本読んだり映画見たりしてたらこの有様です。そんなことでご心配かけて、本当にごめんなさい。社会人失格ですよね……お恥ずかしいです」
 芽子はつまらない嘘を吐いた。ただその場を切り抜けたくて。
 伊沢はまだそれを訝しんでいるようだったが、最終的には納得をしたのか、それ以上は突っ込まなかった。
 そして、
「芽ちゃん、この間のことだけど……」
 伊沢が改めて言葉を紡ぎはじめたその瞬間、芽子は耳を塞いでしまいたかった。
 伊沢が何の話をしようとしているのか、それだけで分かったから。
 返答を保留にしている以上、求められて然るべきなのだが、今はやめてほしかった。
 しかし、伊沢は構わずに続ける。
「返事、まだ後でもいいって言ったけど、もし少しでも可能性があるなら、今度の土曜日に会ってもらえないかな? もちろん、最終決定をする必要はないよ。そういうデート何回かして、それから返事をしてくれるのでも構わない。俺のこと値踏みしてくれていいから」
「あの、伊沢さん……」
 それは、芽子が言いかけた時だった。
「あら、同僚の方? これから診察があるから、ちょっと遠慮してもらえるかしら」
 いつの間にか初姫が戻ってきたようだった。

* 彼の想い彼女の想い 1 *

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