※文字サイズ変更ボタン; 

* 彼の想い彼女の想い 3 *

 初姫に吐き出せたことで少し楽になったのか、その日の晩、芽子は自宅でも少し睡眠が取れた。
 翌朝、普通に起床し、いつも通りの時間に職場へ行くと、席の近い同僚が心配してくれた。課長も例に漏れず、たいそう心配してくれて「もう大丈夫なのかい?」「調子が悪いなら早く言うんだよ」とまるで娘を心配するようだった。
 しかし、睡眠で少し活力を取り戻した芽子は、昨日までが嘘のように仕事をこなせた。簡単なミスも格段に減ったし、お昼になれば普通にお腹が空いて社員食堂で日替わりランチに舌鼓を打った。
 午後になれば課長もすっかり安心したのか、芽子に外回りの仕事を依頼し、芽子もそれを喜んで引き受けて出掛けていった。
 その日の夕方、芽子は終業時間を回った後に外回りから戻った。今日が金曜日ということもあってか、職場にはもう人がまばらにしか残っていなかった。
 隣の係は飲み会があるのだと、芽子と入れ違いで団体で出かけていった。芽子に外回りのお遣いを頼んだ課長は、彼女の姿を確認すると荷物をまとめて席を立った。心配して待っていてくれたようだ。そういうところで非常に部下思いの上司なのだ。
 課長は芽子から報告を受けると、にこやかに笑いながら「今日は妻と約束してるんだ」と言いながら、お疲れさん、と帰って行った。
 あっという間にフロアにひとりぼっちになってしまった芽子は、とりあえずメールの確認だけして帰ろうと机についた。
 ひとしきりメールの返信を終えて鞄のなかのスマートフォンを取り出すも、相変わらず城田からは音信不通だった。
 きっと今日も夜中の帰りになるだろう、明日にでも連絡をしよう、と芽子は小さなため息をついて自分も帰り支度を始めた。
 初姫と話したとおり、明日にはきちんと決着を付けようと。それで例え玉砕したとしても、月曜日に初姫のところに逃げ込めばいいのだと。きっと彼女なら、芽子を受け止めてくれる。
 そんな芽子がパソコンの電源を落とし、鞄を持って席を立とうとした時……
 帰ってきたのは伊沢だった。
 予定表によれば、伊沢は本日ずっと外回りだったので、それが終わって帰ってきたようだった。
 伊沢と今ここに二人きりというのはいたたまれず、芽子は「お疲れ様です」と帰ろうとすれば、伊沢はまるで逃すまいとするかのように芽子の左腕を素早く掴んだ。
 別に強く掴まれている訳ではないのに、芽子は逃げられなかった。
「ねぇ、芽ちゃん明日だけど……」
「あの……」
 伊沢に思わず言葉を被せた芽子。
 こうなれば、明日の話になることなどわかりきっていた。だから芽子は逃げたかったのだ。あわよくば、今夜メールでもして、明日は会えないと伝えるつもりだったから。
「どうしたの?」
「…………」
 芽子は思わず伊沢の言葉を遮ったものの、その先につなげるものがない。それでも、明日、伊沢と会うつもりのない芽子は何とかして断らねばならなかった。
「あの、わたし……」
 それは芽子が言葉を紡ごうとした時だった。
 コトリと物音がして、そちらに視線を向ければ、そこにいたのは……
「あぁ、城田さん。お戻りでしたか」
 伊沢の言うとおり、そこには城田がいた。
 最悪のタイミングだった。
 伊沢は、特に動じることもなく城田を迎え入れる。
 対する芽子は、伊沢から手を離そうとするが、故意に伊沢が力を入れて離すまいとするのが感じられた。
 城田は、そんな二人を一瞥すると、出張の荷物が入っているであろうスーツケースを引いたまま、自分の席へと向かった。
 その間、伊沢は城田に対し、出張の様子や相手の状況等を何食わぬ様子で尋ねていた。城田も城田で、淡々とそれに返答をする。
 そのときの芽子に、そんなやりとりなどほとんど聞こえていなかった。
 やがて二人の会話が止まったかと思うと、伊沢は今までつかんでいた芽子の手をぐっと引いた。
 そして、
「じゃあ、明日の十一時、ここで待ってるから。絶対来てね、芽ちゃん」
 伊沢はそう言うと、小さく折りたたんだメモを芽子の手にそっと握らせた。まるでそれを城田に見せつけるように。
「城田さんも、お疲れ様」
 伊沢はそう言うと、芽子の手を離し、そのまま去って行った。
 後に残された芽子は、動くことができなかった。
 それからどのくらい経ったのだろう――しかし、そう思っていたのは芽子だけかもしれない。
 芽子はただその場に立ち尽くしていた。伊沢のように城田に話しかけられるわけもなく、だからといって「お疲れ様です」とその場を去ることもできなかった。
 城田はそんな芽子に気づいているのかいないのか、無言のまま机の上の書類を片付け、メールをチェックし終えると静かに席を立った。
 そして再び芽子と擦れ違おうとしたその時、
「明日……行くのか?」
 城田は、芽子の左腕を掴んでいた。伊沢に押しつけられるように持たされたメモを手にした腕を。
「……え?」
 一瞬、何を聞かれたのか分からない芽子は答え倦ねてしまう。
 その反応に、城田の眉間に皺が深く刻まれる。
 それは、出張に出掛ける前と同じ、芽子の記憶にもまだ鮮明に残っている城田の不機嫌な顔だった。
「明日、伊沢と出かけるのかと聞いているんだ」
 城田は再度芽子に尋ねた。顔つきと同じ、随分と不機嫌な声で。
「あの……これは、その……約束とかそんなんじゃなくて……」
 きっとこの場合「違います」とか「行きません」とか、それ以前にイエス、ノーで返答すればいい話なのに、城田のあまりの不機嫌さに怯える芽子は、しどろもどろになってしまう。
 そんな芽子を見かねたのか、城田は一つため息を吐くと、掴んだままの芽子の腕を引いた。
「話がある。今からいいか」
 城田の低く抑揚のない声――なんだかそれだけで、芽子は既に最後通告を受けたような気分だった。
「はい……」
 結局芽子はそれしか答えられず、腕を引く城田に身を委ねた。


 ◆◆◆


 会社の最寄り駅から電車に乗り、行き着いたのは城田のマンションだった。
 城田が鍵を開ければ、芽子にとってもすっかり慣れ親しんだ部屋が二人を出迎える。
 火曜日の朝にここを出て、芽子にとっては三日ぶりのこの部屋であるが、もう随分と来ていないような気さえした。忙しいときは三日くらいお邪魔しないことも珍しいことではなかったのに。
 城田は芽子の腕を掴んだままリビングに連れて入ると、少し乱暴に芽子をソファに座らせ、自分も隣に腰を下ろした。
 明らかに怒気をはらんだその行動に、芽子は萎縮する。
 城田は、相変わらず掴んだままの芽子の腕を引き、自分と向き合わせた。
 そして、
「伊沢と……付き合うのか?」
 そんな問いを芽子に投げかけた。
「え……?」
 一瞬、芽子は間の抜けた声を出してしまう。
 その直後だった。
「……渡さない。絶対に……渡さない」
 そんな言葉が聞こえるのと、芽子がソファーに組み敷かれたのはほぼ同時だった。

* 彼の想い彼女の想い 3 *

↑ PAGE TOP