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* 重き代償 第6夜 *

 サァァァァ……
 自室に戻ったリリアナはシャワールームでその身を熱めのお湯に晒していた。
 普通の女官は使用人専用の共同浴場を使うが、リリアナのようなごく一部の上級女官にはこのようなシャワールームが個々の部屋に併設されているのだ。
 リリアナは湯気で曇った鏡をこすり、自分の体を写す。
 その体には胸元から大腿まで、所々鬱血痕が付いている。
 初めて見た時、リリアナは何物かと思い石鹸を付けてそれを思い切りこすった。しかし、それが落ちることは無かった。
 肌が赤くなるほどこすっている内に、リリアナは一つだけ思い出したことがあった。
 以前、既婚の女官が首筋にこれと似たようなものを持っていた。
 虫に刺されたのですか、とリリアナが聞いたら、女官は真っ赤に頬を染めて、ちょっと、と誤魔化した。すると傍にいた年配の女官が『夫婦仲が良いのは何よりね』と声をかけたのを覚えている。
 その時のリリアナは一体何のことかと理解することはできなかったが、今ならそれがよく分かった。
 思い返せば、昨晩、朦朧とする意識の中、リリアナは全身の所々に微細な痛みを感じた覚えがある。恐らくこれらはロイフェルドが付けたものなのだろう。
「汚い……体……」
 呟くと同時に、リリアナの瞳から涙がこぼれ落ちた。
 本当ならば愛の証として喜ぶべき印は、リリアナにとっては汚れた証にしか見えない。
 神を裏切り、契約の代償を支払った証……
 その代償がどんなに重い物なのか、リリアナは今更ながら思い知らされていた。
 こうなることなど、契約を結んだ時点で分かっていたはずなのに、わずかな気持ちが後悔をしたがり、涙を溢れさせる。
「もう……純白の花嫁には……なれないわね」
 リリアナは鏡の中に写る印を一つずつ指でなぞり、その唇からは自嘲の笑みがこぼれる。
(花嫁に……なりたかったな…………)
 言葉には出さないが、涙と共にそんな思いが溢れた。
 幼い頃からの夢、ずっと想い続けた夢……
 しかし、もう二度と叶わない夢……
 リリアナは思いをかき消そうと涙だかシャワーの雫だか分からないものをごしごしと拭う。
「ダメよ……後悔なんてしない……。復讐できるなら、それでいい……そう決めたじゃない」
 自らの体を抱きしめて、リリアナは言い聞かせるようにした。
 シャワー室を出たリリアナは女官服を身につけ、髪をしっかりと結い上げる。そうして支度をきっちりと調えたが、クランツの所へ行くにはまだ時間があった。
 いつもの習慣で、リリアナは朝の祈りをしようと枕元においてあるロザリオを手に取ろうとした。
 が、触れる寸前でリリアナはその手を止めた。
(もう……お祈りを捧げる資格はないのよね…………)
 リリアナは溜息をひとつ吐いてロザリオを手に取ると、いつものように首に掛けるわけではなく、それを机の奥深くへとしまい込んだ。
 二度と使うことはないと思いながら。


*−・−*−・−*−・−*−・−*



 昼下がり、リリアナはクランツが父王と親子のひとときを過ごしている傍で控えていた。
 サルヴェンナ王国現国王、ユースタス=レ=セルラ=サルヴェンナ――
 それがクランツの父親である。先王の第二王子であったユースタスは、先王逝去の後、正妃腹の王子であったために妾腹の兄王を差し置いて国王の座に納まり、現政権を握ることとなった。
 その人柄はとても穏やかで臣下はもちろん、国民の間でも人望の厚い王である。
 そんなユースタスは子供達にも優しい父であり、忙しい執務の合間を縫ってはこまめにクランツにも会いに来ていた。彼にはクランツの他、生まれたばかりの第二王子と、クランツの姉に当たる第一王女、第二王女、それから妹に当たる第三王女と全部で五人の子がいた。そのうちでも、最も愛する正妃が産んだクランツを一等可愛がっていたのだ。
 その正妃、正確には前正妃は、元々体の弱い人でクランツを産んだ後の肥立ちが悪く、彼が二歳の時にこの世を去っていた。
 ユースタスがクランツを可愛がるのはそのせいもあるが、こうして訪ねてきては他愛もない会話を交わしたり、時にはクランツの望む遊びを一緒にしたりして親子の充実したひとときを過ごす。
 クランツもこの時間は楽しみなようで、ユースタスと一緒の時はいつもより笑顔が多く、それに普段は必死で隠している年齢相応の子供っぽさも見られた。
 こんな時、二人はいつもリリアナ以外の女官を下がらせる。
 濃密な親子の時間を過ごすためには、本当はリリアナも退出した方が良いのかもしれないが、クランツがそれを嫌がるのだ。ユースタスも、クランツがそうしたいなら、と何も言わない。
 ほとんど見守るだけであったが、リリアナもクランツにせがまれれば時には一緒に遊びに参加することがあった。
 だから今も、彼女は一人、部屋の隅で二人を静かに見守っていた。
 そんなリリアナは、先ほどからふらつく足下を懸命に堪えていた。
 午前中は何ともなかったが、午後になってからどうも体調が思わしくなかったのだ。
 原因は明らかだ。
 昨晩あまり睡眠が取れていないのと、ロイフェルドとの初めての情事のせいである。
 流石に下腹部の痛みは引いてきたが、未だに違和感は残っている。
 それは、クランツが「本を取ってくる」と部屋を出て行った時だった。
「リリアナ、どうした? 体調が悪いのか?」
 明らかに顔色の悪いリリアナを見るに見かねたユースタスは、彼女の元へ歩み寄った。
 ユースタスはリリアナを一介の女官、と軽んじはせず、いつでも真摯に接してくれる。それはクランツが最も信頼を寄せている女官だからかもしれないが、ユースタス自身が元々人の良い男なのだ。こんな時は、国王ということを微塵も感じさせず、それもまた彼の能力なのだとリリアナは思っていた。
「いえ。大丈夫です、ご心配には及びません」
「だってお前、真っ青な顔をしているよ」
 心配そうに覗き込むユースタスにリリアナは力なく笑ってみせるが、確かに自身でも限界を感じつつあった。
「リリアナ……無理をして勤めを続けることは無いんだよ? クランツのことは気にせず、無理なら少し休みをとるといい。実家に戻ってご両親とゆっくり過ごしたらどうだ?」
 核心は突かないが、ユースタスの言わんとしていることをリリアナはすぐに察した。
(陛下も……ご存じなのね)
 リリアナはそれならばなおのこと、気丈に振る舞おうと思った。
 心配をかけたくは無かったから。
「大丈夫ですよ。夕べ少し寝不足で……。ご迷惑はおかけしません。ですから、陛下や王太子殿下にお仕えすることをお許しください」
「だったら良いが……辛いことがあるなら遠慮無く言うんだよ? 力になるからね」
「はい、陛下。……お心遣い、ありが……とう…………」
――ありがとうございます
 そう言おうと思ったのに、リリアナはそれを紡ぎきることはなくその場にグズグズっと崩れ落ちた。
「リリアナ!? どうしたんだ、リリアナ!!?」
 何が起こったのか分からないうちにリリアナの視界は暗転し、遠くの方でユースタスの声が聞こえた気がした。

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* 重き代償 第6夜 *