水無月も十日ほど過ぎた頃、夜空に輝く月は今宵も煌々と花の都京都を照らしている。
いつもと変わらぬ京の夜……と思いきや、今宵の京には屋根の上を軽やかに駆け抜ける影がひとつとそれを地上で追う無数の影がある。
「追え! 絶対に逃がすな!」
松明を持った強面の男性が屋根上を見上げながらその声を張り上げる。
どうやら今宵はいつもと違って賑やかなようだ。
「はぁ…………」
屋根の上の影は小さく溜息をついた。
(ツイていない…………)
屋根の上の影、
すべての始まりはつい半刻ほど前のこと。
結依はほんのちょぉーっと用事があってとあるお屋敷に忍び込んだ。
時刻も遅いため屋敷中は既に寝静まっており、仕事をするには最適な環境……のはずだった。たまたま起きていたそこの
『ドジを踏んだ』ここまでのことはその一言で済んだ。
それよりもさらに『ツイていない……』と言いたくなるのはここから先。
賊を見て驚いてそのまま気を失ってくれればいいのに、その女房は結依を見るなりこれでもかという程騒ぎ立てたのだ。
叫び声からして彼女は随分な古参の女房らしく、その声はキャァッとかイヤァッとかそんなかわいらしいものではなくウギャァァァという何かを絞め殺すような強烈なものであった。か弱く気絶しなかったのもいい年で肝が据わっていたからかもしれない。
しかもその騒ぎようといったら凄かった。寝殿造りの広い屋敷中隅々まで響き渡るような声を上げ、どちらかというと賊に会った彼女よりもその叫び声を間近で聞いた賊の結依の方が驚いた。
異変を感じ取った巡回中の
おまけに、今晩結依が忍び込んだ屋敷は
おかげで結依は大所帯の男たちと追いかけっこをするハメになったのである。
「追え! 追うんだ! 絶対に逃がすなぁぁぁ!!」
その声を合図に、はいっ、と雄々しく短い返答が所々から聞こえてくる。
「逃がして欲しいんだけどな……」
結依は溜息混じりにぼそっと漏らす。
ふと視線を動かすと、結依の目には少し離れた道端で馬に乗った人物が飛び込んできた。
(……あぁ、本当に今日はツイていない……)
視界に入れるなり、馬上の人物が誰なのかをすぐさま認識した結依は、完全に自分の分が悪いと判断した。そして、顔半分を隠している覆面を目元までついっと引き上げる。
(さっさと引き上げよう……)
結依はその身を舞わせて長い髪を翻しながら暗闇へと消えた。
そんな結依を馬上の人物は遠目にじっと見つめている。
「……随分と身軽だな」
馬上の人物は独り言のようにポツリと呟いた。
「これは、
先ほど賊の追捕に声を張り上げた男は馬上の人物に気づくと、すぐさまその場に膝をついて敬意を示す。
「ちょうど帰ろうとしたところだ」
馬上の人物――右衛門督、
「……あれが噂の賊か?」
顕貢は先ほどよりもはっきりとした声で尋ねる。
「はい。数年前より頻繁に現れている賊です。賊と言っても殺生はしませんし、金品を盗むわけでもないのですが……。本当に変わった賊です。右衛門督様はあれをご覧になるのは初めてですか?」
男の返答を聞きながら顕貢は賊の消えていった闇をじっと見ている。
「あぁ。噂にはよく聞いていたが、初めて見た。……まだ、少年のようではないか」
「それはなんとも。しかしあの身の軽さ、この世の者とは思えませんな」
男は顕貢の問いに首を捻ったが、すぐに深々と頭を下げた。
「……恐れながら右衛門督様、私は賊の追捕に向かいますのでこれにて」
「そうか。引き留めて悪かったな」
顕貢はその場から走り去る男を見送って、再び賊の消えた闇へと視線を戻した。
結依が内大臣邸に戻ったのは子の刻を少し過ぎた時だった。
役人たちの量の多さと彼らとの鬼ごっこに意外と手間取ってしまった。
「結依様!」
結依が自室に戻ると、腹心の女房である
「今帰ったわ」
「お戻りが遅いので心配いたしておりました。何かございましたか?」
三姉妹の長女、千帆が結依の脱いだ忍び装束を受け取りながら心配そうな面持ちで尋ねる。
「今夜は少し手間取ってしまって検非違使に見つかったのよ。でも大丈夫、抜かりなく撒いてきたわ」
「それは大変でしたね」
小袖に緋の長袴をはいた結依に次女の千春が袿と小袿を着せる。
「とにかく、結依様がご無事で何よりです」
続けて、結依の乳姉妹である三女の千波が支度の整った結依の髪を櫛で丁寧に解き始めた。
◆◆◆
内大臣、
「結依、帰ったか」
「はい、義父上。つい先程戻りました」
結依は時峯と向かい合うように座り、床に手をついて軽く頭を下げる。
千帆たちは時峯が訪れたのを見ていつの間にか退がっていた。
内大臣、北邨時峯――――
数年前、北方
「今夜も無事で良かった。しかしな、私は最近徐々に危険が増している気がしてならない。女の身で賊を続けることだけでも危険なのに、最近は検非違使にも目をつけられ始めているだろう。……そろそろ潮時ではないか?」
義娘の身を案ずる義父はいくらか固い面持ちでゆっくりと語る。
「義父上にご心配をおかけしていることは大変申し訳なく思っております。しかし、危険は最初から承知の上です」
結依はそんな義父にあくまで冷静に返答した。
「なぁ、結依。……安岐から聞いたが、最近多くの殿方から求婚を受けているそうではないか。この際その中から好意をもてる方を選んで、内大臣家の二の姫として普通の幸せを掴むのはどうだ?」
「…………」
結依は何も答えずに、時峯から視線を外す。
「私はな、何もお前を責めている訳じゃないんだ。ただ……ただ、お前にもしものことがあったら、と思うと最近怖くてたまらない。お前の両親に申し訳が立たないのはもちろんのこと、私も安岐も大切な娘を失いたくはないのだよ」
少しばかり声を張り上げた時峯はその身を乗り出す。
「……本当は私や安岐がお前の望みを叶えてやれればよいのだが、内大臣ごときの力では何も動かすことはできない。本当にすまないと思う。許してくれ……
時峯は滅多に下げることのないその頭を、義娘の昔の名を呼びながら深々と下げた。
「義父上、やめてください。どうか頭を上げてください。……本当に謝るべきなのはわたしですから」
結依は首を横に振りながら時峯の行動を抑止する。
「義父上と義母上は、これまでわたしや千帆たち三姉妹に新しい名や居場所を与えてくださり、大切に育ててくださいました。そして、今もまたこうして心配してくださる……。お二人はわたしたちにとって感謝してもしきれない恩人なのですよ。それなのに……そんな義父上に従えないわたしが愚か者なのです」
今度は逆に結依がその頭を深々と下げる。
「賊の仕事で義父上や義母上に迷惑をかけているのは重々承知しております。しかし、それをやめればわたしの望みは望みのまま終わってしまうのです。望みが叶わねば、わたしが“結依”として生きていく資格は無いと思っております。それでも、これだけは誓います。義父上の名や内大臣家の名は決して汚しはしません。ですからお願いです。もうしばらく……わたしに時間をください」
時峯は黙ったまま、優しい目で結依の顔を見ていた。
そして、しばらくの沈黙を経て、時峯はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうか……。お前の陽月としての決意に揺らぎがないのなら、私も安岐も見守るだけだ。ただし結依、どんなことがあっても不幸にだけはならないでくれ」
言葉を終えると、時峯はその場に静かに立ち上がった。
「……ありがとうございます。義父上」
結依は時峯の優しい心遣いに再びその頭を深々と下げた。
「幸せになれ、結依。それから……いつでも義父を頼れ。お前のためなら、名など汚してもどうということはない。汚せる名があるだけましだ」
時峯は結依に背中を向けたまま振り向かずに言った。
結依はそんな優しい時峯の背中を黙ったまま見送った。