翌日夕餉ゆうげが済んだ後、結依は自分付きの女童めのわらわ朱鷺ときと千波と一緒に話に花を咲かせていた。
 朱鷺は二年ほど前から結依専属の女童となった、まだ九歳の少女である。千帆たち三姉妹と共に結依の身の回りを世話している。
 幼いながらも博識で年の割にかなりませたところはあるが、根は素直で主人の結依を心から崇拝している小さな忠臣である。
「そういえば、結依姫様。夕べはいつごろもどられたのですか?」
 朱鷺は思い出したように結依に尋ねた。
「さぁ、いつ頃だったかしら。子の刻だった?」
 結依が千波に問いかけると、はい、と短く返事をする。
「子の刻!? そんなに遅くまで依沙いさ姫様のところにいらっしゃったのですか?」
 朱鷺は驚きの声を上げた。
 依沙とは結依の四つ上の義姉のことである。
 朱鷺は結依の夜の仕事を知らない。それ故、結依は仕事に出る晩は朱鷺に『義姉のところへ遊びに行ってくる』と教える。
「夕べは義姉様と話が弾んでしまったのよ。つい長居をしてしまったわ」
「もぉ姫様、子の刻に出歩かれるなんてあぶなすぎます。これからはおそくなるようでしたら依沙姫様のところにおとまりになってくださいね。次の日に朱鷺がきちんとおむかえにまいりますから」
 朱鷺は鼻息を荒くして言う。
 その時だった。
「……ふふ」
 千波が小さく笑った。と言うか、それは堪えていた笑いが漏れてしまった様子だ。
 自分の年齢の倍近く年上の結依を母親のように窘める幼い朱鷺……その図があまりに滑稽であったのだ。
「千波様、笑いごとではございません。夕べだっておそくにゾクが出たといううわさですよ。もしもおそわれたりしたらどうするのですか!」
「あら、賊が出たの」
 千波は平然と朱鷺に答えながら、結依にちらりと視線を送る。
 その視線はまるで、
『結依様が賊にあったら返り討ちにでもするでしょうね』
 とでも言いたげだ。
「それで朱鷺、どんな噂が流れているの?」
 結依は手に持っていた檜扇を閉じたり開いたりしながら、千波と同様平然と朱鷺に尋ねる。
「あ、はい。朱鷺はただ、二条のあたりでゾクが出たとしか聞いておりません。たしか右衛門府官舎のそばだだったとか……。それと、検非違使たちが追ったけれどにげてしまった、と」
「あらそう。それは物騒ね」
 結依は思ってもいない言葉を口に出しながら、それが自分を指すと確信していた。
「二条と言ったらやっぱり左大臣様のおやしきでしょうか?」
 朱鷺は少し声の音量を下げる。
「朱鷺、そんな噂も流れているの?」
「いえ。これは朱鷺のかってなそうぞうです。ただ、あのあたりならソコしかないかな、と思って……」
 結依の質問に朱鷺は少し慌てて答えた。
「随分自信があるようね?」
 今度は千波が朱鷺に尋ねる。
「自信というか……結依姫様も千波様も左大臣様のうわさは知っていますでしょう。今のチョウテイのドクサイ者だって。太政大臣様はもちろん、主上でさえ左大臣様にはさからえないのですから」
 結依は朱鷺の話に静かに耳を傾けていた。
 現行の左大臣が職に就いたのは十年前に起こった成安の変の後である。
 新しい朝廷において彼は富や権力を自在に操り、その勢力を強めていった。
 やがて彼は自らの娘を今上帝の中宮として入内させ、その政治的権力は太政大臣さえも抑えつけるようになったのだ。
 今や左大臣の勢力は、絶対的な地位を持つ帝でさえ抑制することができない状態にまで来ている。
 朱鷺は結依も千波も何も言わないのを確認して続けた。
「せっかくなら、ゾクも左大臣様をおそってくれればいいのに……」
「こら、朱鷺。あなた、滅多なことを言うんじゃないの。内大臣様に謀反の疑いを掛けられたらどうするの。外では決してそんなこと言ったら駄目よ?」
 朱鷺が何気なく漏らした本音を、千波がぴしゃりと叱りつける。
「すみません……。でも、左大臣様がドクサイ者なのを良く思わない人はたくさんいます」
「でも、その独裁者に抗える者は一人もいないわ」
 朱鷺の言葉に対し、結依はそう言い添えた。
 朱鷺の言う通り、今のこの都において左大臣による独裁政権を面白く思わない人間は大勢いる。しかし、それに対抗できる者が誰一人としていないのも周知の事実なのだ。
 それでも、左大臣が就任した当初は異を唱えて反発する者がいた。
 ところが反発者は左大臣によってことごとく潰され、その妻や子供たちまでもが対象となったのである。
 やがて、人々は左大臣のその非情とも言えるやり方に恐れをなし、今となっては誰一人として彼に逆らおうなどとは考えなくなった。
「独裁者、か」
 短い沈黙を経て、結依は無表情のままポツリと呟く。
「朱鷺、あなたまた随分と難しい言葉を覚えてきたわね。本当に利口な子だこと」
 結依はその顔に笑みを浮かべ目の前にいた朱鷺の頭をくしゃりと撫でた。
「ありがとうございます。朱鷺は早く大きくなって千波様たちみたいなりっぱなニョウボウになるんです。がんばりますね」
 朱鷺は結依が自然と話の方向をそらしたことに気づかないまま、主人から褒められたことに素直に喜んだ。








 程なくして、千春が衣擦れの音をさせながら大急ぎで渡殿を渡ってきた。
「た、大変です。結依様」
「何事なの?」
 大慌てで駆け込んできた千春を結依は千波と朱鷺と共に迎え入れる。
「右衛門督、坂口顕貢様がお越しです」
『え……』
 千春の口からその名がこぼれでた瞬間、結依と朱鷺の声が重なり合った。しかし、同じ言葉でもその反応は両極端だ。
 結依はあからさまに嫌な顔をし、一方で朱鷺は満面の笑みを浮かべていた。
 右衛門督、坂口顕貢はここ一年ほど結依の元に通ってきている。しかしそれはあくまで恋愛対象として内大臣家の姫君、結依の元に通ってきているだけのことであり、彼は結依が賊である事実など知りもしない。
 だからこそ、結依にとっては非常に不都合、という言い方もあるが。
「今日は訪問を伝える文も何も来てないわ。それなのにどうして……」
 昨日、暗がりの中遠目で見かけた彼の顔が結依の脳裏に甦る。
「詳細はわたくしにも分かりません。しかし結依様、とにかく御簾の内へ。ただ今、内大臣様がお相手をなさっていますが直にこちらへ参られます」
 千春と千波は今まで巻き上げられていた御簾を手早く降ろし、ひさしにいた結依をその中へ誘導する。
 その時だった。
「ねぇねぇ千春様。右衛門督様にはもう少し待ってもらえませんか?」
 満面の笑みを浮かべたままの朱鷺が、焦る大人たちをよそにゆったりと言葉を紡ぐ。
「それで結依姫様はお着替えしましょ?」
『え?』
 朱鷺の突拍子もない提案に、朱鷺以外の全員がその耳を疑った。
「一番きれいな十二単にお着替えして、結依姫様が右衛門督様をノウサツするんです」
 屈託のない輝く笑顔でそう言う朱鷺に結依の方が悩殺されそうだった。
「あのね、朱鷺……」
 結依はその場で身をかがめて朱鷺に視線を合わせる。
「なんでわたしが右衛門督様を悩殺するの?」
 結依はできるだけ笑顔を保って朱鷺に尋ねた。
 “悩殺”という言葉を一体どこで覚えたのか、という疑問もあったがとりあえず今はソレを聞いている場合ではない。
「もちろん、結依姫様と三日夜みかよをむかえてもらうためです」
 そう答えた朱鷺は、より一層の笑顔を浮かべている。
「……つまり、わたしに顕貢様と結婚しろと?」
「はい。もちろんです」
 結依の確認もむなしく、朱鷺は躊躇うことなく元気に答えた。
「結依姫様、右衛門督様は朱鷺の一番のおすすめです。かっこいいし、やさしいし、おしごともできるし……朱鷺は大好きです。それに、結依姫様にこれ以上ふさわしいお方はいないと思っています」
 朱鷺ははっきりと言い切ると「あと……」と控えめに付け加えた。
「三日夜をむかえれば右衛門督様に毎日会えますしね。……姫様は右衛門督様ではおいやですか?」
 朱鷺はその可愛い小さな頬をぽっと赤く染める。
 結依はそんな朱鷺にもう本当に悩殺されそうだと思いながら、
『嫌です。とっても。だって彼は賊の天敵だから』
 思わず真顔でそう答えそうになるのを必死で堪える。
 朱鷺は結依が賊であることを知らないために、結依が極力顕貢を避けたい事情も全く持って知らない。
 ちなみに、それを知らないというのは結構質が悪かったりする。だからといって知ってもらってもそれはそれで困るのだが。
 結依は心の中で大きな大きな溜息を吐いた。