結依は対峙する朱鷺の両肩に、徐に手を置く。
「分かった。あなたの気持ちはよく分かったわ。でもね、朱鷺……」
そして、ちょっと体調の悪そうな振りをしてみる。
「わたし、今日は寝不足で頭痛がするから顕貢様にはお会いしたくないのよ。せっかくお会いするならもっと元気な時がいいわ。その方が顕貢様を悩殺しやすいでしょう? 朱鷺はそうは思わない?」
「え……今日はお会いしないのですか?」
結依の言葉に朱鷺は一気に落胆し、満面の笑顔を消してその視線を床に落とした。
一応、ここまでのことは結依の予想の範疇である。
「でもね朱鷺、あなたにはとても大切なご用をお願いしたいの。朱鷺の大好きな顕貢様に伝言してもらえないかしら? 結依は本日気分が優れませんのでお帰りください、って。……こんなことをお願いできるのは朱鷺しかいないのだけれど、駄目かしら?」
結依は最後に朱鷺をじっと見つめてその肩をポンポンと叩く。
すると、朱鷺は再びその顔にパァッと笑みを浮かべて「はい」と了承の返事をしながらその場を掛け出していった。
(よし! なんとか成功)
結依は朱鷺を見送りながら小さく拳を握りしめる。
そんな風に主人がかなりの荒技で朱鷺を言いくるめたのを、千波と千春はやや引きつった顔で見守っていた。
しかし、結依はそんなことなどお構いなしに下ろされた御簾の内に自ら進んで入ろうとそれに手を掛ける。
「本当にお会いにならなくてよろしいのですか?」
「千春まで何言ってるの。会っても仕方がないでしょう?」
結依は背中で聞こえた千春の声にそのまま振り返らずに答える。
誰がなんと言おうと、結依は彼に会うつもりなど更々ない。理由は多々あるが、一番大きな理由は『これまでに彼に会って良かったと思う試しがないから』である。もちろん大前提に『彼は賊の天敵』という理由があるが。
「ですが、しばらくお会いになっていないでしょう? あまりお断りになると、右衛門督様ももういらっしゃらないかもしれませんよ?」
「いいのよ。その方が好都合だしお互いのためだわ」
結依は千波の声を背で聞きながら、小さく一つ溜息を吐いた。
その後短い沈黙を経て、
「……ゆ、結……依様?」
千波がおずおずと結依の名を呼んだ。
彼女がまだ何か物を申したいのだと思い込んだ結依は、御簾をたくし上げていた手を止め、再び溜息を吐く。
そして、
「あのね、彼に会うくらいなら早く寝た方がマシ………」
振り向きざまに勢いよく言った。
いや、正確には言いかけた。が、振り返った瞬間目に入ったものに、結依はそこで言葉を止めた。むしろ、止めたと言うより止まってしまった。
「でしたら一緒に休みますか、結依姫」
千波と千春の後ろ、そこで顔面を蒼白にした千帆と共に立っていたのは……紛れもなく坂口顕貢本人。
彼の腕の中には頬を紅潮させた朱鷺がいる。
結依は袖口を手で摘み、体裁が悪そうに自分の口元を押さえる。
(……な、なんで……ここにいるのよ!?)
顕貢の爽やかな笑顔に結依の顔は引きつり、考え得る限りの言い訳という言い訳が頭の中を駆け巡る。
「朱鷺、結依姫は思ったより元気そうだね」
朱鷺はニコリと笑って「はい」と返事をすると、顕貢の腕からするりと降りた。そして、てこてこと結依の前まで走って来る。
「姫様、おかげんはどうですか? ご気分が良くないとおっしゃったので右衛門督様におみまいしてもらえるようにおねがいしたのです。右衛門督様のおかおを見れば姫様もきっと元気になるはずだと思って」
「あら……そう。……ふふ、朱鷺ありがとう」
(余計なことをぉぉぉ!!)
結依は心の内とは裏腹に懸命に笑顔を作り上げあげながら、絞り出した声で朱鷺に労いの言葉を掛けてやった。
三姉妹は事態のあまりの気まずさに耐えかねたのか、「ごゆっくり」と顕貢に伝えると朱鷺を抱えるようにしてその場を去っていった。
(裏切り者ぉぉぉ…………)
結依は今にも泣きそうだった。
「お久しぶりですね、結依姫。まだ御気分は優れませんか? やはり添い寝が必要ですか?」
御簾越しに結依と向き合うように座った顕貢は爽やかな笑顔を見せる。
どうやら先ほど『会うくらいなら早く寝た方がマシ』と結依が言ったことを根に持っているらしい。
気にしていたところで、普通こんな事は面と向かって聞かない。けれどこの男は聞く。聞きにくいことを、その作り物のように美しい顔に笑みさえ浮かべて聞くのがこの男なのだ。
右衛門督、坂口顕貢────
太政大臣家嫡男であり、年は今年で二十二になる。
容姿端麗、頭脳明晰で上官からの信頼も厚く、同世代の中でも特に将来が有望視されている男である。つまり、分かりやすく言い換えれば現代社会の典型的エリートというわけだ。
結依のところには一年ほど前から文を送ってくるようになり、数ヶ月前からは十日に一回程度の頻度で内大臣家を訪れている。
結依はなんとか気持ちを切り替えようと一度コホンと咳払いをした。
「先ほどはお見苦しい姿をお見せてしまい、失礼致しました。気分というより機嫌が優れなかったもので……つい。機嫌の悪いまま顕貢様にお会いするのは失礼かと思いましたの。……それより、しばらくお会いできませんでしたが、お元気でお過ごしでしたか?」
結依も負けじと深窓の姫君に見えるような穏やかな笑みを作り上げて返答をする。
その心の内では『昨日の晩も遠目でお会いしましたけどね』という言葉を噛みしめながら。
「相変わらず、屋敷と職場の往復だけですよ。特にここひと月程は結依姫に応じてもらえませんでしたからね。本当に色のないつまらない生活でした」
顕貢はしれっと結依への恨み言を口にしたが、この反則的にいい顔で爽やかに言われると少しも嫌な気はしない。
確かに彼が言う通り、ここひと月ほど結依は顕貢の誘いを断り続けていた。
理由はいたって簡単――夜は賊の仕事が忙しかったから、である。
もう一つおまけに、賊としてはそれを取り締まる衛門府の役人と極力関わりたくない、である。
でもまさかそんなことは言えないので、結依はここひと月、考えつく限りの言い訳を並べて断っていた。とりあえず体調が悪い、という理由に関しては腹痛から頭痛から貧血から使えそうな症状は何でも使ったことだけは記憶している。
顕貢はそれをさすがに嘘だと感じ取ったのか、差し当たり、今夜は断れないように突撃お宅訪問を強行したというところだろう。
そもそも、ひと月も断れば嫌気がさして離れていく……それが結依の当初の予定であったが、敵もなかなか手強いようだ。
しかしながら、顕貢はその肩書きと容姿からしてそこまで結依にこだわらずとも女性に事欠くことはないはずである。
(だったら、別の姫のところへ行ったらいいのに……)
そう思いながらも結依は相変わらず穏やかな笑顔を保とうと努力をする。
「あら、それはどうでしょう。わたくし存じておりましてよ? 顕貢様は都中の女人から求婚されるほどの人気だと。わたくしなどとお会いにならなくても、色々とお忙しく過ごしていらっしゃるでしょうに」
結依はふふっと笑いながら嫌味をそのまま返した。
しかし、
「相変わらず結依姫は手厳しいですね。ですが、それは嫉妬と捉えてもよろしいのでしょうか? でしたら嬉しい限りですね」
顕貢はその顔にこれでもかと言うほどの笑みを浮かべてそう切り返してきた。
「…………」
顕貢のあまりの前向き思考振りに結依はその言葉を失う。もはやぐうの音も出なかった。
そして引きつりつつある顔を隠すために、結依は檜扇を開いて口元へ寄せる。
「姫、その檜扇、よろしければ少し見せていただけませんか?」
顕貢は結依の手元に視線を運ぶと、すっと御簾越しに近づいた。
「構いませんが……普通の檜扇ですよ。特別上等な物でもございませんし」
結依は特別何も考えず御簾を少したくし上げ、どうぞ、と閉じた檜扇を顕貢に差し出す。
と、その時だった。
(――――!!)
顕貢が檜扇を持つ結依の手首を力強く引いたのだ。
突然の事態に結依は体勢を崩してそのまま顕貢の胸へと転がり込む。
結依の手からこぼれ落ちた檜扇はコトリと音を立てて床に落ちた。