一瞬、何が起こったのか結依は理解に苦しんだ。
 それでも、今の状況が何かおかしいことは分かる。
「何を……なされます、顕貢様」
 顕貢の目的が檜扇でないことを悟った結依はすぐさま顕貢から離れようとする。
 しかし、顕貢はそれを許さない。
 本当は結依が本領発揮すれば顕貢の腕からすり抜けることは容易いことである。だが、今の結依はあくまで普通の姫であるため最低限の抵抗しか許されない。
 顕貢は右手で結依の手首を握ったまま、左の手で結依の顎をくいっと持ち上げた。
 顕貢の反則的に綺麗な顔が至近距離で結依の視界に入る。と言うより、結依の視界にはもはや彼の顔しか入らない。
「顕……貢様……お離しください」
「嫌だと言ったら?」
 頬をいくらか赤らめる結依に顕貢が不敵な笑みを見せる。
「お戯れが……過ぎます」
 結依は声を絞り出すように言った。
 どんなに意識をしていない相手でも、これだけ綺麗な男性の顔を直視したら赤面もするし鼓動も早くなるというものである。特にこういう事に関して不慣れな結依にとっては。
 これでは、仮に本領を発揮して良い状況であっても結依が逃げられるかどうかは怪しい。
「さて……戯れが過ぎるのはどちらです? 結依姫がつれない態度を取るからです。ひと月振りにお会いできたというのに、檜扇で隠してしまってお顔さえまともに見せてくださらない」
「……このような顔、わざわざお見せするほどのものではございません」
「何を仰る。貴女は都一と名高い美姫ですよ?」
「またそんなご冗談を……」
「何が冗談です。貴女の美しさは、生きているうち一度は見たいと都中の男が望むほどです」
 顕貢は真剣な顔で瞬きもせず結依を見つめる。その魔力さえ潜むような美しい双眸に結依は完全に捕まる。
(す、吸い込まれる…………)
 このままでは結依が顕貢のペースに完全に乗せられてしまうのは時間の問題である。
(……ど、どうしよう…………!?)
 反則的に綺麗な顔で凝視される恥ずかしさと状況への焦りで、結依の頬は茹で上がりの様に紅潮し始める。
 突然、顕貢はクスリと笑いをこぼした。
「……少しは、意識していただけました?」
 顕貢は笑いながら結依からそっと手を離して檜扇を拾い上げ、それを結依の手に持たせてくれる。
 そして、顕貢はそのまますっと立ち上がった。
「……顕貢様?」
 体勢を立て直してきちんと座った結依はやや拍子抜けだ。
「今日はこれで職場に戻ります。実は、仕事の途中でしてね。結依姫は昨晩、右衛門府の側に賊が現れたのはご存じですか?」
「あら、そうでしたの。存じ上げませんでしたわ」
 結依はあえて知らない振りをした。
「昨晩遅くのことですからご存じなくても仕方がないでしょう。その関係で色々と雑務がありましてね。……賊は捕まっておりませんので結依姫も十分にお気をつけください」
「えぇ。ご心配ありがとうございます」
 結依はニコリと笑って答えた。
 顕貢は一瞬驚いたような表情をし、その後一度だけ結依をしっかりと見つめた。
「今宵はお会いできて嬉しかった。また、来ます。……今度はせめて作り物でない笑顔を見せてくださいね。それでは」
 最後に見せた顕貢の笑顔はどこか愁いを含んだものだった。
 結依は顕貢を追いかけるように立ち上がり、そのまま去っていく彼の背中を見送る。
(作り物でない笑顔……お見通しということね。さすが、鋭い人だこと……)
 結依は小さく一つ溜息を吐き、顕貢の姿が見えなくなってからもその視線を動かすことはなかった。








「らしくありませんね。あなたともあろうお方が、姫君のところからこんなにも早くお帰りになるなんて」
 顕貢の従者、佑智すけともが隣を歩く主人、顕貢にそう言ったのは内大臣邸からの帰路でのことである。
「難攻不落なんだ。仕方がないだろう? いつもとは訳が違う」
 顕貢は自嘲混じりに答える。
 佑智は顕貢より随分と年を重ねているその顔にしわを寄せ、穏やかな表情で若い主人を見つめていた。
「お珍しいですね。顕貢様がそんなことをお口にされるのは」
 顕貢が幼い時から専属の従者を務めてきた佑智は、顕貢がどこへ行くにも付き従ってきた。
 もちろん、顕貢が見染めた姫のところにも幾度となく一緒に行ったが、これまでに一度として顕貢を拒絶する姫君はいなかった。それは一緒にいた佑智が一番よく知っている。
 それもすべて、顕貢の地位や容姿に惚れない姫がいなかったからであり、顕貢が文を送れば姫たちは二つ返事でそれに応じ、文を出さずとも毎日何通もの文が届けられていた。それが、どんなに難攻不落と噂される姫君であったとしても。
 それを思えば、今回は確かに顕貢が手こずっている。
 佑智の記憶によれば、内大臣家の二の姫はこの都一と噂されるほどの美姫。それが真実であるのなら、流石の顕貢でもなかなか落とせないというのは納得できなくもないのだが……それにしても、些か手間が掛かりすぎている。
「なぁ佑智、普通の姫君が賊が出ると聞いたらどんな反応を示すと思う?」
 佑智は顕貢が突然投げかけた問いに、はて? と首を傾げる。
「普通の姫君なら驚くか怖がるかすると思わないか?」
 顕貢は質問を重ねる。
「そうですねぇ。まぁ……とりあえず、怯えるでしょうかねぇ」
「だろう? やはりお前もそう思うだろう? ……普通はそうだよな」
 考えを巡らせる佑智に顕貢はやや身を乗り出すように同意を求めたが、後半は意気消沈したように視線を落とした。
「結依姫様は違う、と?」
 佑智はすかさず尋ねる。
「そうだ。前々から普通の姫とはどこかズレていると思っていたが、今日のアレも結構だった」
 そして、顕貢は先ほど結依に賊が出ると話した時の出来事を佑智に聞かせた。
 話が進むに連れて次第に興奮する顕貢と反対に、年の功を重ねた佑智は穏やかな顔でその一部始終を聞いていた。
「賊が捕まってないから気をつけろと言えば、笑みさえ浮かべて『ご心配ありがとうございます』だぞ。おかしいと思わないか? もっとこう、怯えて震えたり、恐怖に泣いて『そばにいて』と縋ったりしないものか?」
 顕貢が一気に話し終えると、佑智はクスクスと笑い出した。
「何だ佑智。笑い事じゃないだろう」
「……すみません」
 謝りながらも佑智の口元は未だに緩んでいる。
「ですが、それがよくて結依姫様をお選びになったのでしょう?」
「それは……」
 佑智に核心をつかれた顕貢は咄嗟に反論しようとしたがその後が続かなかった。
「では結依姫様はもう諦めて、他の姫君になさったらどうです? 顕貢様さえその気になればすぐに三日夜を迎えられますよ」
「いや……他の姫ではダメなんだ」
 顕貢は佑智の慰め代わりの言葉をすぐに否定する。
 佑智は顕貢の即答を分かり切っていたかのように無言のまま笑顔で受け止めた。
 しかしその後顕貢は何も言わず、二人の間を沈黙が支配する。
「結依姫は……」
 顕貢がそう言葉を紡いだのは、それからしばらくしてのことだった。
 佑智は話し始めた隣の主人に視線を合わせる。
「他のどの姫にもない何か、を持っている気がするんだ」
「何か、は何です?」
「……それは、私にも分からない。今はまだ単なる勘でしかない。ただ少なくとも、結依姫は他多くの姫たちのように私に媚を売るような真似は一度たりともしたことがないんだ。それも姫に惹かれる理由の一つというのは確かだな」
 顕貢は言葉を終えると、その視線を夜空へと向けた。
 そして、
「……誰か、もう心に決めた人がいるのかもな」
 ポツリと呟いた。
 それは消え入るほどに小さく、隣にいた佑智でさえ聞き取ることはできなかった。