今まで眩いばかりに輝いていた月がその姿をすっぽりと雲の中に隠してしまったため、辺りは漆黒の闇に包まれる。
 結依は今夜もまた検非違使たちと追いかけっこをしていた。いや、別にやりたくてやっているわけではないが……。
 何を隠そう前回仕事中に見つかったせいで、都の警備が強化されたのだ。もちろんそんなことは結依も把握していたが、それが予想の範疇を超えるものであったから困った。
 しかし、本当のところを言えばそれも大した問題ではない。今夜の問題は――他の何でもない天気である。
 都では昼過ぎから曇り始めた天気が夕方になるとぽつぽつと雨模様に変わり、結依が仕事に出かける頃には再び曇り空となった。
 雨が降ると瓦が濡れて滑るため、結依は必要がなければ地上での移動にする。まかり間違って足を滑らせて落ちました、では洒落にならないので。
 しかし……その選択が全ての元凶だった。
 忍び込んだ屋敷から帰るところを検非違使に見つかったのだ。
 普段ならば屋根づたいに引き上げるところを、地上を使ったものだからそれはもう物の見事にばったりと。正面衝突よろしくで。
 唯一の救いはその時月が出ていなかったことである。
 いくら覆面をしていても、月が出ていて間近に見られれば確実に面が割れる。今回はそれを回避できただけでも良いと思わなければいけなかった。
 しかし、追いかけっこをしているうちにその月までもが出てきてしまったのだ。まだ、随分と雲が多いのか、月はその姿を短時間で見せたり隠したりしている。
 それでも、少しでも明かりがあれば結依にとって危険が高まることは言うまでもない。
「本当に最近ツイてないのよね……」
 結依は地面を走りながら溜息混じりに漏らした。そして、ある場所を見極めて屋根の上へとその身を翻す。
 瓦はまだ湿っているが、地上で面が割れる危険に怯えるよりも、細心の注意を払ってゆっくりでも屋根づたいに逃げた方がよい……結依はそう考えたのだ。
 道があるところしか進めない検非違使よりも、行動範囲が広い屋根の上の方が明らかに有利なことは分かっていたから。
 結依は屋根上から見下ろし、検非違使たちが追って来られないところを選んで逃げていく。
 ところが、月は再びあれよあれよという間にその姿を隠してしまった。月が隠れてしまえば、後は検非違使たちの声を頼りにするしかない。
 とりあえず、彼らの声が聞こえないところまで逃げる――それが今の結依にとっての最重要課題となったようだ。
 結依は視界がままならない事もあってとにかく地理的感覚を取り払い、聴覚だけを頼りに屋根の上を逃げた。
 やがて、ここはどこ……? とふと我に返るまで……。
 結依はいったん足を止める。
 耳を澄ませて周囲の音を確認するが、追っ手の声は聞こえない。
 どうやら最重要課題は遂行したようだ。
(良かった)
(良かったけど…………でも……)
(ここどこ……?)
 結依の中で単純明快な疑問が浮かぶ。続けて、この年にして恥ずかしいこと極まりない単語が脳裏に浮かんだ。
(もしかして……迷子?)
  きっと、最悪、という言葉はこういう時のためにあるのだろう。
「はぁぁぁぁぁ……」
 結依は息を全て吐ききるくらい深い溜息を吐いた。そして、泣きたくなるほどの自己嫌悪に陥る。
 しかし、いつまでもこの状態でいるわけにはいかないと自分を奮い立たせ、結依はとにかく見知った光景を探そうとその身を屋根から屋根へと軽やかに飛ばし始めた。
  ところが、いつまで経っても見知った光景に行き着くことはない。どちらかというと余計に見知らぬところに迷い込んでいる気さえする。
 やがて、月がその姿を現し始め、気づけば雲の量もだいぶ減って星もいくつか見え始めてきた。しかし、相変わらず月が隠れる分量の雲は未だにある。
 結依は月が出ている間に何とか知っている場所に出ようとした。このまま朝まで放浪――そんな状況だけは避けなくてはならない。
 そして、結依がある屋根へと飛び移った時だった。
(…………)
 飛び移った屋根の上で、結依は一瞬自らの目を疑った。いや、疑わざるを得なかった。
 そして、その場に立ちつくす。
 なぜならそこには、子供が居たのだから……――
 子供はその場に座り込み、まるで物の怪か何かを見たかの様な顔でその瞳を結依に釘付けにしていた。
 いつの間にか完全に姿を現した月が、その輝きで徐々に二人の姿格好をはっきりと映し出す。
 結依も子供も、互いに驚愕の表情を見せ、何も言わずに互いを見ている。
 子供は耳の辺りで髪の毛を結ったみずら頭のなんともかわいらしい男の子だった。
(……なぜ、こんなところにいるの?)
 結依の中で単純ではあるが一番理解不能な疑問が浮かんできた時、男の子は二人の間の沈黙を破るかのようにその場にゆっくりと立ち上がった。
  と、その時、
  ガ、ガラッ……
 男の子はその足を滑らせ、その衝撃で瓦がずれた。
「う、うわぁっ!」
  男の子はいっぺんに体勢を崩す。
「危ないっ!!」
  叫んだ時には結依は既にその場を蹴り、両手を伸ばして男の子の体を自分の方に抱き寄せるようにしていた。
 後先考えない無謀な行動だったため、二人の体は宙を舞い、屋根の上から地面にまっ逆さまだ。
(うまく着地できるかしら?)
  一端は体勢を整えようとしたが、子供を一人抱えての状態ではさすがの結依でも無理がある。それに屋根から地面ではあまりにも距離が短すぎるのだ。
  結依はすぐに諦めて、背中から落ちて胸に抱く男の子への衝撃をできるだけ和らげようとした。
 ドッッシーン!
 遥か遠くまで響き渡るような大きな音と同時に、耐え難い激痛が結依の背中を襲う。
(────!!)
 あまりの衝撃に一瞬、息ができなくなる。
 咄嗟に考えついた最善策だったとはいえ、結依の受けた衝撃は凄まじかった。
(……この子、平気だったかしら?)
 自らのことはさておき、結依は自分の腕の中で身動きひとつしない男の子のことを案じていた。
 しかしながら、結依の意識は次第に遠のきつつある。
(あぁ……ここの主人に検非違使に突き出されるかも……)
  そんなことがふと頭に浮かんできたが、その時の結依にはもうどうでもよいことだったし、むしろ何かを考えることが困難だった。
(なんでこんなに……ツイていないのよぉ……)
 結依はその意識を静かに手放した。








 結依が重い瞼をやっとのことで持ち上げると、見たことのない天井が視界に入る。
(ここ、どこ……? )
  辺りの明かりは灯台の細々とした灯のみだったが、結依は自分がどこか知らない場所にいることだけは分かった。
(わたし、夕べ……どこかに泊まったんだっけ?)
  結依は寝ぼけた頭で一応考えてみる。
 依沙のところへでも遊びに行って泊まったのかと記憶をたどるが、そんな覚えはない。
(いや……夕べは仕事に出たはずよね。それで……検非違使から逃げていて……)
(そうだ! 男の子が……)
 記憶と現実の照合作業を終えた結依は、その場に飛び起きた。
「――――ッッア」
 起きあがった拍子に背中に激痛が走る。
 結依は声にならない叫び声をあげ、再びその場に崩れこむ。
「大丈夫か?」
  痛みに顔をしかめながら声のした方へゆっくり視線を移すと、結依が横になっているちょうど右側に一人の男性が直衣のうし姿で座っているのが見えた。
 結依の脳裏には比較対象にすぐに顕貢が浮かぶが、男性は彼と同じか幾らか若いといった感じだ。
「屋根の上から直に落ちたのだ。まだ起きられる体じゃない。目立った外傷はないが、背中を酷く打ったらしいな。ずっと目を覚まさないから、打ち所が悪くてもう目を開かないのかと思ったよ」
「いえ。一応受け身は取りましたから、大丈夫です」
「そうか、でもまだ休んでいると良い。今はもうすぐ寅の刻になるところだが、夜明けにはまだ時間がある」
(寅の刻……?)
  結依は即座に計算をする。昨晩、彼女が内大臣邸を出たのは戌の刻が半分ほど過ぎた頃だ。
(……そんなに寝ていたんだ……)
  ふと、結依が視線を男性から左にずらすと、夕べのみずら頭の男の子と結依よりいくらか年下の男の子が二人で寄り添うようにぐっすりと寝ていた。
「……よかった。無事だったんですね。この子、どこか怪我は?」
  すやすやと寝息を立てているみずら頭の男の子を見て、結依は安堵の溜息を漏らした。見た感じでは重度の外傷はないようだが念のために確認してみる。
「あなたのお陰で傷はもちろん、打ち身のひとつもないようだ。ありがとう。私の方から礼を言わせてもらう」
  男性は結依に深々と頭を下げた。
「そうですか……怪我が無くてよかったです。ところで、ここは……?」
  結依がゆっくりと身を起こしたその時だった。
「お客人がお目覚めのようですね」
 どこからともなく、声が聞こえた。