そんな声と共にまた別の男性が一人、結依のいる塗籠ぬりごめの内へと入ってきた。今度は顕貢よりもだいぶ年上と思われる男性だ。
  結依は咄嗟のことに背中の痛みも忘れ、側に置いてあった自分の小刀に手をかけていつでも抜ける体勢を取る。
 そんな結依に男性はフッと笑みを零した。
「そんなに警戒しなくても、役人に突き出したりなどしないから安心しなさい」
  結依は男性の言葉に警戒を続けながらも、様子を窺いつつゆっくりと小刀を置いた。
 少し気が緩んだのか、背中の痛みが徐々に戻ってくる。
 結依は乱れた衣を整え、その場に座り直した。
  すると、今まで寝ていた二人の男の子が辺りの騒ぎに気づいたのか目を覚ました様子だった。
「……んん……」
中務卿宮なかつかさきょうのみや……いらっしゃったのですか。すみません、いつの間にか寝てしまったようで」
  結依よりいくらか年下と思われるの男の子が眠そうに目をこすりながらその身を起こす。
 彼の言葉に、結依はわずかに顔をしかめる。一瞬何かが引っかかった気がしたのだ。
「あっ、おきたの? もうだいじょーぶ? いたいところなぁい?」
  続けて目を覚ましたみずら頭の男の子が、既に起きていた結依をその視界に入れると、少し興奮した様子で身を乗り出した。
 彼はくりくりとした丸く大きな目で結依をのぞき込む。小動物のようでやたらと可愛い子だ。
之仁これひと、大きい声を出すな。外に知れると厄介だからね」
  結依の右にいた男性が抑え気味の声で男の子を制する。
 その時、結依の頭では徐々にある記憶が引き出されていた。
 結依は先ほどから妙に気になる言葉をいくつも聞き取っている気がする。
(之仁……中務卿宮……之仁……中務…………)
「あ────っっ!!」
 二つの名前を繰り返しながら遂に引き出された記憶に、結依は思わず絶叫した。むしろ気づいた時には叫んでいた。
  次の瞬間、そこにいた全員が傍にあった袿を結依に被せて押さえ込む。
 それはそれは見事な連携体勢だった。
東宮とうぐう様、何かございましたか?」
  塗籠の外で誰かの声がしたのは、それからすぐのことだった。
「何でもないよ。弟たちと中務卿宮が一緒にいるのだ。下がってよい」
 結依の右側にいた男性が落ち着き払った声で答える。
 東宮――その言葉で自分の記憶に確信を持った結依は、袿を被せられたまま自分のツキのなさをとことん恨んでいた。
(昨日、わたしが迷い込んだのは恐らく東宮御所……。助けたのは恐らく今上帝の第三皇子、之仁親王……。そしてここにいる人達は……)
 導き出された予測を並べていくに連れて、結依は段々と泣きたくなる。
(まったくもって、わたしはどエラいことをしてしまった……)
 結依はできることならこのまま気絶してしまいたい気分だった。
「大きな声は出すな。獄舎行きにはなりたくないだろう?」
  東宮(あくまで結依の推測)は結依から袿を取る。
「ここ……もしかしなくても東宮御所……ですますよね?」
  明らかに賊と分かるような者を役人に突き出さずに看病してくれた。
 そんな心優しい貴族のお屋敷に迷い込んだと(勝手に)思っていた結依は、事実の重大さに混乱して正しい日本語が出てこない。
 東宮や親王なんて存在は雲の上の存在で敬語どころの話ではない。というか、むしろ実際に言葉を交わすことさえ憚られる。それは分かっているのに結依は言葉が出ない。
「そう、ここはあなたの言う通り東宮御所だ。……でも、正式な謁見ではないのだから堅苦しい言葉はいらない。普通に話したらいい」
  東宮が優しい表情で言った。
 他の者は皆、興味津々といった様子で結依を見ている。
  結依はひとつ深呼吸をして、そしてすぐに開き直りを決めた。
 ここまできたらもはや開き直るが勝ち、である。そうに決まっている。
「……あなたが今東宮の之親これちか親王様、そして中務卿由之よしゆき親王様、今東宮の弟宮である之義これよし親王様に之仁親王様……それであっていますか?」
 結依の右に座る男性、彼よりも年上の男性、結依の左側で寝ていた結依よりいくらか年下と思われる男の子、そして昨日助けた男の子……その順に結依は自らが知っている名前を当てはめてみる。
 すぐに否定の言葉が出ないところからすると、どうやら正解のようだ。
 結依は以前、時峯から聞いたことがあった。
 今上帝には三人の親王がいて、一番上が今東宮の之親親王、二番目が之義親王、末子が之仁親王。そして彼らの叔父である先帝の第三皇子、由之親王は今上帝の懐刀と呼ばれる男である、と。そして、付加情報として全員目も覚めるほどの美丈夫である、とも聞いていた。
 結依は一通り親王たちの顔を見渡して、時峯の話が本当だったと独り納得した。
 これまでに結依は顕貢ほどの美丈夫を他に見たことがないが、ここにいる親王たちなら勝るとも劣らないだろうと密かに思ったりした。
(まったくとんでもないところに来てしまったものね……)
 結依は心の中で呟き、無意識のうちに泣きそうな顔をしていた。
「お姉ちゃん……」
 そんな結依にいち早く気づいたのは之仁だった。
「お姉ちゃん、やっぱりどこかいたいの? ぼくを……たすけたせいで、けがしたの?」
  之仁はしゅんとした様子になる。
「もちろん痛いだろうね」
  答えたのは東宮、之親だ。
 之仁は少し厳しい顔をした兄の方へ目を向ける。
「お姉ちゃんはお前を庇って屋根の上から落ちたんだ。だからお前はどこも痛くないだろう? その分お姉ちゃんが痛い思いをしたのだよ。分かるだろう? 之仁。二度とあんなところに登ってはいけないよ」
  之親は幼い弟を優しく諭した。
 之仁は兄の顔を見ながらその双眸にたくさん涙を溜めている。
「ごめんね、ごめんね……。ぼくね、かあさまにあいたかったの。とうさまが、ぼくの母さまはお月さまになったのだよってゆったの。だから、お月さまのちかくに行きたくて……。兄上のおうちはお月さまがよく見えるから、それで……のぼったの」
  結依は大粒の涙を桃色の頬にポロポロとこぼして一生懸命に話す之仁をたまらなく愛しく感じた。そして、そんな之仁を優しく抱きしめて頭をそっと撫でてやる。
「母しゃまぁ……」
 之仁は結依に小さな手でしっかりとしがみついて泣き始める。
「おや、之仁は赤ちゃんになったみたいだな。……さて、それじゃあそろそろ貴女の番ですよ? お客人」
  由之はその顔に不敵な笑みを浮かべていた。
 結依はそんな由之を見据えながら、彼の意図を読み取る。
(たぶん……聞きたいのはわたしの正体、よね?)
  恐れ多くも東宮御所に入り込んだ女など有無を言わせず近衛府このえふに突き出すのが当たり前だ。それなのに、そうはせずにゆっくりと休ませ看病までしてくれたのだ。
『目が覚めました、お世話になりました、ありがとう、はいさようなら』
 などとはいかないことくらい結依も十分承知していた。またそれがそのまま通ってしまったらかえって恐ろしいというものである。
(でも、もしかしたら……)
「あの……わたしは……偶然にも東宮御所に迷い込んだ、通りすがりのごく普通の女です。どうもお世話になりました。それでは宮様方ごきげんよう」
  結依は限りなく無に等しい一縷の望みを胸に、顔中の筋肉を総動員して営業用の笑顔を作りあげる。そしてその場から立ち上がり、何事もなかったかのように塗籠を出ようとする。
 その時だった。
(――――!?)
 殺気を感じた結依は今まで自分のいた場所から五寸ほど左にずれて顔のちょうど右横で何かをその手で掴んだ。