「……危ないですね」
 どの宮が投げたのか、結依が掴み取ったのは檜扇だった。
「本当にごく普通の女なら、後頭部に直撃ってところかな」
  今まで黙っていた之義が今度は不敵な笑みを浮かべている。
 結依は掴み取った檜扇を之義に投げ返す。その場の視線は既に皆結依に集まっている。
「……直接屋根の上を飛んでいるのを見たのは之仁のみだが、そんな芸当ができるのなら身も相当軽いのだろうな」
  そう言った由之は、子供が何か楽しい玩具を見つけたような好奇心いっぱいの顔を見せていた。
「お客人、質問を変えよう。自分の家に帰るか、それとも獄舎に行くか……どうする? 今晩、二条のある人物の屋敷に賊らしい者が一人侵入したそうだね。すぐに検非違使が追ったが、屋根の上を軽やかに飛びながら内裏の方へ姿を消したと聞いている。……身に覚えはないか?」
  結依は由之の言葉に唇をわずかに噛み締める。
(逃げ場はない……ってことね)
  この時、結依はもはや熊に追い詰められた兎のような気分だった。
 こうなりゃもうとって食われるしかない……。間違いなくそんな感じだ。
 しかし、結依は勝負に出るのをためらっていた。
『わたしは単なる町娘です』
 そう嘘をついたところで彼らが納得するわけがない。
 かと言って、
『内大臣家の二の姫です』
 などと本当の事を言っても到底信じるとは思えない。
 じゃあ姫のくせに何で忍び装束なんか着ているの? どうして屋根の上が飛べるの? ねぇねぇ、どうして? 何でー? ……おそらく半永久的に続けられるであろう質問の数々が、結依には簡単に予測できた。
 そして、
『そのお屋敷にはどんな用事があったの?』
 最悪の質問が結依の脳裏を過ぎる。
 このまま黙っているわけにいかないのは明らかだ。だが、結依には洗いざらい話すつもりなどこれっぽっちもない。
(どうしよう…………)
 結依は究極の選択を迫られていた。
「私たちがすべての情報網を使いこなせば、貴女の正体を突き止めることはできる。恐らくな。でも私たちもこそこそ調べたくはないから、できれば自分の口で言わないか?」
  今度は之親が不敵な笑みを見せる。親王たちは全員好奇心旺盛な性格らしい。
「……分かりました」
 結依は決断を下した。
「では、正体を教える代わりに、わたしについての個人的なことは一切詮索をしない。もちろん今晩のことも。その条件、呑んでいただけるのならわたしのことをお教えしましょう」
  結依の申し出に一同は沈黙した。親王たちのそれぞれが何かを考えている顔をする。
「あのね……」
  一番初めに口を開いたのは之仁だった。
「ぼくはみんなのゆっていること、むずかしくてあんまりよくわからないけど、お姉ちゃんがもう一回ぼくに会いにきてくれるなら、今日は、お姉ちゃんおうちにかえってもいいよ? きっと、お姉ちゃんの父さまも母さまもしんぱいしてるでしょ?」
  之仁は立ち上がってほてほてと歩いて結依の前に行き、そして円らな瞳で彼女の顔を見上げる。
「そうだね。ただで帰すっていうのはつまらないけど……それならね」
  之義が弟の意見に賛同する。
「お客人……これより十日後、乞巧奠きっこうでんが行われる日は知っているか?」
「はい」
 結依は短く答えた。
 乞巧奠――別名、星の祭り。牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬を許された日に行われる宮中の催し物だ。
「ならばその晩、もう一度私たちの前に姿を見せなさい。大内裏は祭りでごった返しだから幾らか入り込みやすいだろう。侵入の手段は問わない」
  由之の言葉に賛同するように之親がゆっくりとうなずく。
 結依は一拍間をおいた。
 親王全員の顔を見渡す。
 そして……
「内大臣家二の姫、結依……ソレがわたしの正体ですよ。満足してもらえました?」
  結依の告白後、一瞬、その場の空気が張り詰める。
  が、
「ユイ……お姉ちゃんのなまえ、ユイっていうの!?」
  之仁が驚いたようにその目をまん丸にしている。
「そう、結依がわたしの名ですよ」
  結依は自分を見上げる之仁に優しく微笑みかけてやる。
「星空からやってきたお客人がユイか……。偶然とは怖いものだな……」
  由之がその目を細めてポツリと言った。
「内の大臣の二の姫が“結依”という名だったとは……。之仁、お前の母が空から飛んできたというのもあながち嘘ではないかもしれないぞ」
  之仁は東宮の言葉に本当に嬉しそうに笑った。
「結依、あのね、ぼくの母さまもユイっていうんだよ。同じだね」
  頬を紅潮させてやや興奮気味に喋る之仁を見ながら、結依はあることを思い出していた。
 数年前、先帝の御姪子、ゆい姫が今上帝に入内して中宮となり親王を産んだ。そして、中宮唯姫は親王が二つか三つの時に病で亡くなった、と。
(そうか、同じ名だったのね)
 それからすぐ、
「……では、これで」
  結依は小さく呟いて、次の瞬間には塗籠を飛び出していた。
「結依っ!」
  之仁を先頭に宮たちが結依を追いかけたが、結依の姿はもうどこにもなかった。
  向かいの屋根の上から結依はその様子を見ていた。
(東宮に親王か……賊の道に手を染めたわたしにはまったく無縁の人達ね)
  結依は冷め切った、けれど寂しそうな自嘲の笑みを浮かべながら闇へとその姿を消した。








 寅の刻を少し過ぎた頃、結依は内大臣邸の塀をひらりと飛び越えた。
「結依様!!」
 迎え入れたのは、寝ずに主人の帰りを待っていた三姉妹だ。
 千春と千波は結依の無事を確認すると、すぐに時峯の元へと報告に向かう。
「結依様に限って……と信じてはおりましたが、お帰りが遅い日が二度も続くと心の臓に悪いです」
 千帆は強ばった表情で、結依の着替えを手伝っていく。
「大丈夫よ。危険を感じたら逃げるようにしているから。検非違使もここのところ容赦がないし、甘く見てると痛い目を見るっていうのはこれでも分かっているつもりよ」
「ですが……万が一の事があっては困ります。やはりこれからはわたくしたちが……」
 言いながら千帆が結依の背中に触れた時だった。
「――――ッッ!!」
 結依が痛みにその顔をしかめる。
「結依様!? ……まさかお怪我を?」
 千帆の顔が一瞬にして険しさを増す。
「大丈夫よ。心配ないわ」
 そんな千帆を安心させようと結依はわずかに笑ってみせる。
「ですが……」
「ちょっとね、屋根から落ちたの。受け身も取れたし、問題ないわ。雨上がりで瓦が滑ったのよ。わたしもまだまだ技術不足ね」
 結依は笑いながら小さな嘘をつく。
 東宮や親王達のことを不用意に話して、千帆に余計な心配を掛けたくはなかったのだ。
 ただでさえ、帰りが遅いことでこんなにも心配してくれているのだ。これ以上負担を増やしたくないと結依は判断した。
「それより、今日は結構な収穫があったのよ」
 着替えを終えた結依は千帆に不敵な笑みを見せた。
「あの屋敷ね、実は隠し部屋があったの。……通りで何も出てこないはずよね」
「隠し部屋、ですか?」
 千帆は確認をするようにその部分だけを繰り返す。
「ええ。西の対にね。でも……見つけることはできたけど、入るところまでは行かなかったわ。わたしでは開けられない錠がいくつも掛かっていたのよね」
「そうでしたか。……それは千春でも無理でしょうか?」
「そうね……錠開けの才に秀でている千春なら、何とかなるかもしれない。ただ……」
 結依はそのまま言葉を濁した。
 千帆はそれを急かすこともなく結依の髪をゆっくりと櫛で解き始める。
「千春を連れて行くのはもう少し後になりそうよ」
 結依がそう言ったのはしばらくの沈黙をおいてからだった。
「今はかなり警備が強化されているし、迂闊に動けば墓穴を掘りかねないわ。ほとぼりが冷めるのを待つべきね」
「そうですね、その方がよろしいでしょう。隠し部屋というのは大変気になりますが、急いては事をし損じる、ですね」
 千帆の言葉に結依はゆっくりと頷いた。