奏でられる琴と笛の音が絡み合って紡ぎ上げられた美しい音色。
内大臣邸では住人たち誰もがそれぞれの持ち場でその美しい音色に耳を傾けている。
音色の主は、二の姫とその恋人。
住人たちは皆、その二人が楽器を奏でる微笑ましい姿を想像しながら聞いていた。
朱鷺もまた屋敷の片隅で、今度こそ二人は三日夜を迎えるかもしれない、と甘美な妄想に身を委ねながら音を楽しんでいた。
結依は目の前にいる顕貢の姿を視界に収めながら最後の弦をゆっくりと弾く。
音が途切れ静けさが辺りを支配する。
「結依姫、また腕を上げられましたか?」
顕貢は相変わらず反則的に綺麗な顔で爽やかな笑みを浮かべる。
「いいえ。まだまだですわ」
結依もまた笑顔を返す。
顕貢は笛を置くと徐に立ち上がり、燭台の火をフッと吹き消した。
辺りは一瞬にして漆黒の闇に包まれる。
やがて、その暗さに目が慣れてきた頃、顕貢は御簾を巻き上げ夜空に煌々と光る月の光を迎え入れた。
今宵の月は大きく、その光だけで十分な明るさを確保できる。
「姫、乞巧奠の晩はもうどなたかとお約束が?」
今まで月を見ていた顕貢は振り返って尋ねた。
乞巧奠の晩――結依は顕貢の言葉に、そういえば、と記憶の糸をたどり宮たちとの約束を思い出していた。
しかし、思い出したところでどうするわけでもない。結依はその約束を果たす気などさらさらなかったのだ。
彼らは元々結依とは別世界に住む人間。まさかどこかで会うこともない。
それに、正体は教えたし一応のけりはついている。興味津々の彼らのことを考えれば、再び会いに行くことはわざわざ彼らに秘密を明かしに行くようなものである。
つまり、触らぬ神に祟り無し、というところだ。
之仁の顔を思い出すと心が痛むが、この選択がお互いのためでもあると結依は確信していた。
一方で……この時、顕貢は何かを考え込む結依に少しばかり不安になっていた。
「……結依姫? まさか……そんなに考えるほどお相手がおいでか?」
「え……?」
そこまできてようやく我に返った結依は、今まで遊ばせていた視線を顕貢に合わせた。
「本当にそんなに……?」
返答をしない結依に顕貢は次第に焦り出す。
――内大臣家の結依姫、彼女の元に通っている男は今のところ右衛門督だけ……
顕貢は巷で流れている噂を心の中で復唱しながら落ち着こうと試みる。
しかし、噂は噂でしかない。都一の美姫と謳われるような結依が、他から誘いを受けないという保証などどこにもないのだから。
(もしかして誰も知らないだけで、私以外に通っている男がたくさんいるのか?)
(いや、たくさんいないにしても、やはりもう心に決めたたった一人がいて……)
普段、職場では氷の鬼と呼ばれるほど冷静沈着な顕貢も、その時はもはや完全に冷静さを失っていた。
「その……結依姫、お相手たちを……聞いてもよろしいか?」
顕貢はやっとの思いでおずおずと言葉を口にする。
「…………」
結依は答えずに袖元で口を隠した。
顕貢にはそれが『そんなことお答えできません』と訴えているように見える。
しかし、実際結依は必死で笑いを堪えているだけであった。正確には、もう随分と前から笑いを堪えていて、もはやたまらずに口元を押さえたのである。
どうやら顕貢は結依が返事をしなかったせいで完全に誤解をしているようだ。
結依に誰か別の殿方がたくさん通っている、と。
いつもは冷静沈着で鉄壁のような顕貢が一人で勝手に誤解をし、そのまま妄想を暴走させて混乱状態を引き起こしている。
「……それほどまで……」
顕貢が今までよりもさらに深刻な表情で言葉を紡ごうとしたその時だった。
「ぷっ……」
ついに耐えきれなくなった結依がその吹き出した笑い声で顕貢を遮った。
結依はそのまま笑った。口元を押さえながらも、そりゃもうお腹を抱えて転げるほどに。
大臣家の姫君がはしたない、と頭で思いながらも結依はその笑いを止めることができなかった。終いにはお腹がよじれて死ぬかと思ったくらいだ。
顕貢は呆気にとられて、笑う結依を見ていた。
しかし、本当に楽しそうに笑う結依を見ているうちに、顕貢は自らの口元も自然と緩ませる。
なぜなら、顕貢にとってこんなにも楽しそうな結依の笑顔はこれが初めてだったから。
これまで見ることが出来たのは全て作り物の笑みばかり。綺麗だと定評のある顔に浮かべられるその笑みも、確かに絵に描いた様に美しい。だが、どう考えても今のこの笑顔の方が顕貢の目には数倍美しく映ったのだ。
顕貢は自分が笑われていることなどさておき、先ほど燭台の火を消してしまったことを悔いていた。
(月明かりではなく、もっと明るい場所で姫の笑顔を見たかったな……)
そう思ったから。
「……ごめんなさい。……ふふふ……」
結依はさすがに笑いすぎだと思い、涙を拭いながら謝罪の言葉を述べる。それでも、笑いは収まらない。
「いつも冷静な顕貢様が……そんなにも焦るから……わたくし……もう可笑しくて」
結依は再び瞳にいっぱいになった涙を拭い、そして大きく一度深呼吸をした。
「……すみません。お見苦しい姿をお見せしてしまいました。……それで、乞巧奠の晩のことでしたね?」
結依は元々の話を確認する。
顕貢は結依の言葉に再び表情を硬くして、一度だけコクリと頷いた。
そんな顕貢の姿に結依は再び笑いがこみ上げそうになる。
「そうですね、その晩は……」
もったいぶる結依に顕貢はゴクリと生唾を飲み込む。
「何もありませんわ。約束も予定も」
結依は、困ったものですね、と言い添えてニコリと笑って見せた。
その瞬間、体中の力が一気に抜ける……それを今この時に顕貢は身を以て体験した。
顕貢は思わず安堵の溜息を漏らす。
「嫌ですわ。顕貢様ったらわたくしのこと、どんなに遊んでいる女だと思われたのですか?」
「え?」
少しふくれた結依に顕貢が疑問の声を上げる。
「顕貢様はどうせわたくしに恋人がたくさんいると思ったのでしょう?」
(確かに……それは間違っていないが……)
顕貢は声には出さず、心の中だけで答える。
「だから、わたくしがまさかそんな阿婆擦れとは思わなかった……って、驚かれたのでしょう? それとも呆れました?」
(…………?)
顕貢の思考は一気に止まる。
顕貢は結依の言葉を十分に理解することができなかった。
いや、恐らくこれは顕貢でなくても理解するのは困難である。
そう、恋愛ごとにおいて本当に疎い結依は、顕貢が自分に嫉妬をしたとかヤキモチを焼いた、などとは全く以て思っていなかったのだ。彼が結依の元へ通い詰め、こんなにも言い寄っているにも関わらず……だ。そして、それはこの時この瞬間だけでなく、誰かに指摘されなければ恐らく永遠に結依は気づかないのだろう……。
一言も声を出さない顕貢に結依は続けて言葉を紡いだ。
「ここに通ってくるような物好きなお方は、顕貢様だけですよ」
結依はふふっと笑みをこぼした。
彼女の無意識のそれに顕貢は思わずドキリとしたが、本人の結依がそんなことには全く気づいていないのはもちろん言うまでもない。
内大臣邸からの帰り道、佑智は気持ちが悪いほどの笑顔を見せている主人を心配そうに見つめていた。
(……結依姫に嫌われて気でもふれたのか?)
佑智は結構深刻に心配していた。
「……顕貢様?」
「なんだ?」
不安そうに見つめる佑智とは逆に、顕貢はご機嫌な様子で答える。
(……内大臣邸で変な薬でも盛られたか?)
佑智は次なる不安に頭を痛める。
「……今宵は随分と楽しそうですね。何かございましたか?」
「まぁな。結依姫が笑ったんだ。声を上げて嬉しそうに」
(いや、普通の姫なら笑うだろうが。生まれたばかりの赤子ではあるまいし……)
佑智は心の中で一人突っ込む。
そして今までより更に顔の筋肉を弛緩させた主人を佑智は冷ややかな視線で見つめる。
顕貢は前回の内大臣邸来訪の際、疫病神がついたのではないかと思うくらい悲壮な顔をしていた。しかし、今日は頭に花が咲きそうなほど幸せそうな顔をしている。
しかも、その理由は『結依姫が笑ったから』だ。
(一体、内大臣家の二の姫とは何者なんだ?)
佑智は新しい疑問に思いを巡らせた。
その一方で、顕貢は頭の中である台詞を何度も反芻させていた。
『ここに通ってくるような物好きなお方は、顕貢様だけですよ』
結依は先ほど確かにそう言った。
何とも可愛らしい笑顔のおまけ付きで。
それを思い出すだけで、顕貢は顔が緩んでしまうのが自分でも分かる。
佑智は相変わらずそんな顕貢の様子を観察しながら、
(私の主人は随分と厄介な姫君を好きになったものですね……)
独り静かに思う。そして、やれやれと肩を竦めた。