結依の義姉である内大臣家の大姫、依沙が結依を訪ねてきたのは乞巧奠きっこうでんを三日後に控えた日だった。
  依沙は四年前、八つ年上の右大臣家嫡男、田代たしろ寛道ひろみちと結婚した。
 そして一年ほど前、寛道が権参議ごんのさんぎに就任したのを機に内大臣家を出て寛道の北方に収まったのだ。それからは内大臣家にはほとんど寄りつかなかったが、今日は珍しく息子を連れて訪ねてきたのだ。
「久しぶり結依。元気だった?」
  依沙は今年で二歳になった息子を千帆たちに預けると、結依の隣に座り込んで脇息に寄り掛かった。
「突然来るなんて珍しい。寛道義兄様と何かありました?」
  結依は一息ついた依沙に尋ねる。
「うん。正妻というものがありながら、浮気しやがったから家出してきたの」
「はっ?」
  夫婦にとってかなり深刻なのではないだろうかと思われる問題を「てへっ」とばかりに笑いながら言う義姉に結依は耳を疑う。
 そして一瞬のうちに考えた。あまりに衝撃的なことだったために依沙の頭は少しおかしくなったようだ、と。
「……嘘よ、嘘。あなた、昔からわたしの嘘に騙されるわよね。まぁ嘘って言ってもそれなりにホントだけど」
「またぁ〜、もう騙されないわ。……驚くじゃない。大体義兄様の人柄を考えたって浮気なんかできないものね。義姉様がしたって義兄様は絶対しないわ」
「あら、せっかく美しいお姉様が来てあげたっていうのに、随分言ってくれること」
「はいはい。申し訳ありませんね」
  結依はようやく感覚を取り戻しつつあった。
 しばらく会っていなかったせいで忘れていたが、義姉という人はとにかくアッサリサッパリした人間なのだ。
 一見暴走しているかのような性格だが実は彼女の言うことやることすべてに道理が通っている。しかも、それらが反撃できないほど完璧だから万が一彼女を敵に回してしまったら恐ろしいことこの上ない。
  さらに依沙は、琴も書道も縫物も、もう一つおまけに和歌の才能も天才的である。
 同年代で彼女の右に出る者など誰もいない。特に薫物たきものに関しては内大臣家の依沙姫を越せたら超一流と基準にまでなっている始末である。
 そんな依沙の何が凄いのかといえば、それは負けず嫌いが半端じゃないこと……。
 昔、結依が持ち前の運動神経で庭から高欄こうらんをひらりと飛び越えた時、たまたま見ていた依沙は突然自分もやると言い出した。そして、できるようになるまで食事もろくにとらずに朝から晩まで一人黙々と高欄を飛んでいたのだ。それはもう、物の怪か何かが取り憑いてしまったのではないかと両親が不安がるほどに。
 そして五日目の朝のこと、彼女は見事に高欄を飛び越えて見せたのだ。その瞬間、背筋がゾッとしたことを結依は今でもはっきりと覚えている。
  そんな依沙の容姿はといえばそれはそれで自他ともに認めるかなりの美人なので、一時期ぜひ東宮妃にと望まれたこともあったくらいだ。
 しかし、都中の姫が望んでも叶わないその最高最大の出世街道を「年下には興味がないのよ」との理由で依沙はバッサリと切り捨て、十八の時ごく普通の結婚をしたのだ。年上の寛道と。
「で、突然来たからには何か用事があるのでしょう? わたしに」
「あのね、例年のごとく今年も乞巧奠の管弦の宴に琴の弾き手として参加するのよ。わたしが。で、結依はわたしのお供で行くの」
「行きませんよ」
 結依は即答した。
  依沙はそれに驚いたような顔をしている。
「ねぇ結依、もしかしてその日はどこかの殿方と約束でもあるの? それならわたしは身を引くけれど……」
  依沙はいつになく控えめだった。もしそういうことであれば、姉の立場としては喜ぶべきことであるからだ。
  しかし結依の答えは、
「そんなのいるわけないでしょう」
 至って簡単だった。
 唯一、可能性のある顕貢もその日は内裏の警備に駆り出されて忙しいと先日言っていた。だから姉の心配もむなしく妹はすぱっと答えたのだ。
「あっそ。じゃあ問題ないわね。父上も母上も結依が適役って言っていたし、兄様も結依を推したのよねぇ。それに、初めからあなたしかいないって決めてたの」
「決めてたって……そんな無理矢理な……」
  結依は久しぶりの義姉の暴走に完全に振り回されていた。
「だって結依、あなたは四年前わたしが結婚する前とその次の年に一緒に行ってくれただけじゃない。二年前はわたしが身ごもっていて出られなかったし、去年は強制連行しようと思っていたら仕組んだように当日になって熱を出すし。今年はそんなことがないように今日からわたしがここに泊まるから。いいわね? 結依」
  依沙はにっこりと笑った。それは何者も打ち勝つことのできない代物である。
 結依は過去何度かの経験でそれを学んでいた。
(まったく、この人は……)
  結依はやれやれといった風ではあったが、愛情のある目で依沙を見ていた。
「そういえば結依、例の仕事は順調なの? この間、兄様から少しだけ聞いたわ。相変わらず危ないことはしてるみだいだけれど……」
  依沙は突然真剣な目をして声のトーンを一つ下げた。
 大臣と安岐の他、義姉の依沙と義兄の吉峯よしみねもまた結依の過去と秘密を知る者である。
 結依が内大臣邸へ来た時、既に十五歳だった吉峯と十二歳だった依沙は新しい妹の良き理解者となり心の支えとなるために、すべての事情を知る権利がありそして知らなくてはならなかったのだ。
 依沙は今までずっと結依のやっていることを黙認してきたが、やはり姉としては心配でたまらないというのが本音である。
 結依もそんな依沙の気持ちはよく分かっていた。
「ええ、それなりに順調ですよ。確かに危険ですが、わたしには命を懸けられる価値のある仕事だから。義姉様ならわたしの気持ちが分かるでしょう?」
「分かるわ。分かるから……怖いのよ。結依がいつか無理をして命を危険にさらすのではないかって。やめろ、なんてうるさいことは言わないわ。でもその仕事、許すけれど死ぬことは絶対に許さないわよ。……死んでしまったら望みが叶っても何もならないのだから……」
 そう言った依沙の表情はいつの間にか強ばっていた。
「義姉様……?」
  そんな依沙に結依は思わず呼びかける。
 すると、依沙はハッと我に返ったように今まで持っていた檜扇でビシッと結依を指し示した。
「……とにかく、人は必ず誰でも失敗があるわ。だから自分の力を過信しては駄目よ。つまり、あなたもたまには検非違使に追いかけられたり屋根の上から落ちるってこと!」
  依沙は「いいわね?」と言い添えると、その時にはもう既に再びその表情にはよく目にする自信のある笑みを浮かべていた。
「はい、義姉様。よーく注意して行動しますよ」
(検非違使に追いかけられて屋根の上から落ちる……か)
 結依は何だか笑いがこみ上げてきた。
 依沙は昔からなんだってお見通しなのだ。そしていつだって本当の妹のように心配してくれる。そう思ったら心がくすぐったく感じた。
(警備の強化もさることながら、これでは乞巧奠が終わるまで仕事はできないわね)
 既に話題を乞巧奠へと移して、結依が行くものとして話しをしている依沙を、結依は慈愛に満ちた目で見つめていた。