その夜、屋敷中が寝静まった後千帆は周囲を気にしながら人知れずある場所を訪ねた。
「失礼いたします。依沙姫様、千帆にございます」
「入りなさい」
  千帆が訪ねた本人、依沙は御簾の中からわずかに顔を覗かせて内へと招き入れる。千帆はそこへ入る際にも周囲を十分に警戒する。
 千帆が御簾の内に入ると、依沙は「こちらに」と言って自分のすぐ側に座るように指示をした。
 御簾の内は灯台の灯りが一つぼんやりと点っているだけで、相手の表情がようやく見える程度の明るさしかない。
 また、いつもは常に傍に控えさせておく依沙の腹心の女房、あかねの姿も今はどこにも見当たらずそこは本当に依沙と千帆二人きりの空間であった。
「結依は? もう休んだの?」
「はい。よくお休みになられています。お約束通り、依沙姫様と会うことは結依様には一切お知らせしておりません。千春と千波が結依様のお側に控えておりますので、ここにいらっしゃることもないでしょう」
  千帆は頭を下げ、依沙に敬意を表した。
「そう。それで率直に聞くけれど、結依の仕事はどうなっているの? 最近兄様が警備の強化が厳しくなっていると仰っていたけれど……あの子の望みは叶いそう?」
  千帆は返事の代わりに、ただ黙ったまま首を静かに横に振った。
 依沙は千帆の答えに一瞬悲しそうな顔をする。
「残念ながらなかなか思うようには……。何しろもう随分と昔のことですから、物的証拠を探し出すのは難しいかと思われます。当時関係していた人物も数名は病等で既に他界しておりますし……結依様の望みを全て叶えることは、もしかしたら無理かもしれません」
「千帆……無理、なんて言葉は簡単に言っては駄目よ。どんなに確率が低くてもあの子は叶うと信じているのだから……」
  そう言った依沙は千帆に視線を合わせず、遠い目をしていた。
 その目は御簾の向こうの暗い庭を見ているようにも思えたが、視線は特定の何かを追っているわけではない。
「……四年前のことね」
「え?」
 突然の依沙の言葉に千帆は今まで俯けていた顔を上げた。 
 そして依沙は静かに昔話を始めた。ポツリポツリと記憶を呼び戻しながら、まだ依沙と千帆が十八だった頃の話を。
 あれは依沙に結依という義妹ができて既に六年が過ぎた頃のこと――
 ある夜、ふと目を覚ました依沙は御簾越しになんとも不思議な光景を目にしたのを今でもよく覚えている。
 まだ裳着を終えて間もない義妹と彼女の腹心の女房三人が、忍び装束に身を包んで内大臣邸の高い塀をいとも容易くひらりと飛び越えていったのだ。
「初めて仕事に行くあなた達を見た時は本当に驚いたわ。忍び装束に身を包んでいるし、しかもあの高い塀を簡単に飛び越えるんですもの。……夢を見ているのかと思ったわ」
 あの時、依沙は驚きながらも義妹に見とれてしまった。
 なぜなら、月夜に照らされた彼女は幼いながらも美しく神秘的で、それには妙に惹きつけられるものがあったから。元々綺麗な子だとは思っていたが、あの時は一瞬天女か何かかと思ったくらいだ。
 依沙はその結依の姿を、まるで昨日のことのようによく覚えている。
「あの子はまだ裳着を終えて間もない十四歳、わたしと千帆は十八歳だったわね」
 それから先、結依たちの夜の外出はほぼ毎日続いていた。月の出る晩は必ず、その身を軽やかに翻しながら闇へと消えていく彼女たち。
 依沙は何も言わず、ただ陰ながらそれを見送っていた。そして帰ってきたのを確認してから床につく。いつの間にかそれが習慣となっていた。
 結依が早く帰ってきた日は安心し、逆になかなか帰ってこない晩は彼女の身に何か起こったのではないかと気が気ではなかった。
 しかし、依沙がその外出の目的を聞くことはなかった。
 六年前初めて結依に会った時から、依沙は薄々感じていたのだ。
 義妹はその小さな体に自分の知らないことをたくさん抱えているに違いないと。そしてそれは、知りたくても聞いてはならないことなのだと。
 だから、彼女たちの外出を知っても依沙は黙って帰りを待つことしかできなかった。今夜もまた、無事に帰ってくれればいい……いつもいつもそう思って。
「もう四年も経つのね……。早いような、遅いような」
 千帆は黙って依沙を見ていた。
 この時、依沙はふとあることを思いだしていた。
 それはある晩、兄の吉峯から結依達の外出の目的を聞かされた時のこと。彼女たちの外出を見守るようになって半年ほど過ぎた時のこと。
 吉峯から事情を聞くや否や、
──わたしが何かしてあげたい
  依沙はすぐにそう思った。
 しかし、すべてをこなしてきた依沙でもこればかりは訳が違った。
 結依が抱えているものは依沙にはどうしようもないことだったのだ。琴や笛、書道や和歌、薫物、そんなものがいくら完璧にできても何の役にも立たないこと。
 それまでの依沙には、自分にできないことなど無いという自信があった。今にして思えば小娘の浅はかな思考であるが、どんなことでも諦めなければ、また努力をすれば何でもこなせると思っていたし信じていた。
 しかし、その時ばかりは自分ではまったくの力不足だということを依沙は瞬時に理解した。そして、話にさえならないということも。
 もちろん、何もしないうちから諦めるなど無様なことなど依沙はしたくなかった。だが、自らを過信して下手な手出しをしようものならそれは結依の足を引っ張るだけでなく、彼女から多くの物を奪ってしまうかもしれない。それはもちろん、命さえも例外ではなく……
 依沙はそれだけは嫌だったのだ。
 義妹が抱えているもの――それは彼女の命にさえ関わること。いや、それだけではない。言い換えれば、それは今の朝廷を根底から揺り動かすだけの力があること。
 だから、一介の貴族の姫でしかない依沙ごときでは触れることはできないし、そもそも触れてはならないのだ。
――わたしはなぜ結依に何もしてやれないのだろう
 依沙は自分の無力さが悔しくて、泣きながら義妹の背を見送って帰りを待つ晩もあった。
 泣くことしかできない自分はさらに惨めで、依沙はとにかく結依のために何かをしようとした。しかし、無力な彼女ができることといったら、話し相手となり時折結依が見せる心の傷を幾らか癒してやることだけだった。
 それでも、依沙は一生懸命やった。何とか義妹の力になれるように、と。
 だから結依の笑顔を見ると依沙は嬉しかった。少しでも彼女の役に立てたような、そんな気がしたから。
 実際、そのような時は逆に依沙が結依に救われていたのかもしれない。
「何とか、あの子を幸せにしてやることはできないのかしらね……」
  依沙は視線を遠くへと残したまま、自分の中に溢れかえる思いをまとめるかのようにポツリと言った。
 それからしばらくの沈黙を経て、
「……まだ、確証はないのですが」
  今まで穏やかな顔をしていた千帆はその表情を真剣なものへと変えて言葉を紡ぎ始めた。