明らかに変化した千帆の雰囲気に、依沙は瞬時に彼女へと焦点を合わせる。
「依沙姫様は例の二条のお屋敷をご存じですね? ……数日前、そこの西の対に隠し部屋があることは突き止めました。しかし、とても厳重に囲われていて近づくことさえ困難な状態です。一度入り込むことには成功しましたが、結依様の技術を以てしても空けることのできない錠前が数個かかっていたと。恐らく唐渡りの精巧なものかと」
 依沙は脇息に肘をつき、真剣な面持ちで千帆の話に耳を傾けている。
「普通の屋敷だったら人目に晒したくない姫君が住む西の対。人の行き来は少ないし、隠し部屋を作るには都合がいいってわけね。屋敷の主人がそこに何を隠しているのかは分からないけれど、関わりのあるモノだといいわね。ただ、問題はその錠をどうやって開けるか、だけど……」
  その時、依沙は目を細めその口元を少し緩ませていた。それは、いつもの自信に満ちあふれている顔に近しい。
 そんな依沙を見ながら千帆は思わずクスリと笑みを零した。
「依沙姫様は、結依様をお止めにはならないのですね。時峯様や北方様のように」
  そんな千帆の言葉に、依沙は今までよりもさらに笑みを強める。
「だって、止めるだけ無駄じゃない。だいたい止めたところであの子が言うことを聞くと思う? それはあの子が生まれた時から一緒にいるあなたが一番よく知っているでしょう?」
「そうですね……結依様は一度こうと決めたら人の言うことを聞きませんからねぇ」
  千帆はそう答えながら、尤もだと思わず笑ってしまった。
「それに、力ずくで止めてもかえって結依は不幸になるわ。父も母も兄もそれを承知しているから力で抑えないのよ。できる限りあの子の好きにさせてあげたいもの。まぁ北邨の人間がみんな結依を思いやっていることは確かね」
 依沙の言葉に千帆はその手を付いて、深くその頭を下げた。
「ありがとうございます。わたくしの主人は、本当に幸せ者でございます。わたくしがこのようにお礼を申し上げるのは立場違いであることも、また非礼であることも重々承知の上ですが……北邨の方々にはどんなに感謝をしてもしきれません」
「あら、感謝されるようなことは誰もしてないわよ。だって家族なんだから。家族の誰かを思いやるのは至極当然のことでしょう?」
 言って、依沙はフフッと笑って見せた。
 そんな依沙を見ながら千帆は、彼女のこのような度量の大きさにこれまで何度助けられてきたことかと改めて実感する。
「……千帆、今夜はわざわざごめんなさいね。結依のことはあなたに聞くのが一番と思って呼んでしまったけれど、つい遅くなってしまったわ。あなたももう退がってゆっくり休んでちょうだい。ありがとう」
「お気遣い感謝いたします。……それでは、失礼いたします。姫様もお早めにお休みくださいね」
  千帆は再び深々と頭を下げた。
 そして席を立った千帆が数歩歩き始めた時、
「……ねぇ、千帆」
  依沙は何かを思い出したように彼女を呼び止めた。
「何か?」
  千帆はすぐに振り返る。
 すると、
「あなたはもう……千明ちあきではないのよ? 今のあなたは内大臣家の二の姫付き女房、千帆……そうでしょう?」
  依沙は笑っているような、けれど泣いているような顔で千帆を見ていた。
「依沙姫……様?」
  その時、千帆は依沙の意味することを掴み倦ねていた。
 一体何を言いたいのか――千帆がそう考えている内に、それを察した依沙は言葉を続ける。
「千帆、あなたは気づいていないみたいね。わたしのことは姫様って呼んでいるのに、結依は結依様。姫が付けられないのは昔の名残? ……あなた達も結依も、もうここの人間なのよ? さっきも言ったでしょう。もう家族なんだって」
「…………」
  千帆は答えの言葉が見つからなかった。依沙の言う通り、そんなことにはまったく気づいていなかったのだ。
(依沙姫様、結依様……そうだったわね……)
 言われてみれば結依を呼ぶ時に“姫”をつけていない。それがいつの間にか千帆の中で当たり前となっており、今依沙から指摘されるこの瞬間まで少しもおかしいと思っていなかった。
「あのね千帆、今はそれでもいいわ。でも何もかもが終わったら、あの子が“結依”として生きていけるよう姫様って呼んであげて? その先、ずっとあの子が幸せに暮らしていけるように」
  依沙は静かに言葉を終えた。
 千帆はそれに無言のまま深く一礼をして、静かにその場を後にした。



 ◆◆◆



(依沙姫様、あの方にはおそらく一生かなわないな……)
  千帆は渡殿を歩きながら考えていた。
 内大臣家、二の姫付きの女房である千帆。そうなってからもう十年が経った。
「姫様か……」
 未だかつて結依に付けたことの無かった敬称を、千帆はその唇から零すように呟いてみる。
 十年――自分が千帆であることは既に当たり前で、『千帆』と誰かに呼ばれれば何の疑いもなく自然に返事ができるようになっている。しかし、その身に染みついた癖は抜けなかったようだ。
「結依姫様……」
 千帆は続けてそう呼んでみたが、慣れない響きで何だか変な感じがする。
『何もかもが終わったら、あの子が“結依”として生きていけるよう姫様って呼んであげて』
 ふと、先ほどの依沙の台詞が脳裏に浮かぶ。
(そうね。すべてが終わったら、姫様と呼んで差し上げよう)
(結依姫様……一日も早くそう呼べる日が来ればいいのに……)



 ◆◆◆



 千帆が退出した後、依沙は簀子まで出て高欄に寄り掛かって月を見上げていた。
  陽月に千明、それに千草ちぐさ千裕ちひろ……彼女たちが内大臣家に来てもう十年になる。
 あれから……
 大納言であった時峯は内大臣に就任し、依沙と吉峯はそれぞれに結婚をして子供のいる歳となった。また異母弟が生まれて、幼かった異母妹はすっかり成長して来年辺りは裳着を行う年頃だ。
「十年か……。あの子は生まれてからの半分以上を“結依”としてすごしたのね……」
 依沙は十年間の出来事を走馬燈のように思い出しながらポツリと呟いた。
 十年……――
  言葉では簡単に言えてしまうが、それが自分にとって長かったのか短かったのか依沙は自問自答をした。
 依沙にとってはあっという間であったかもしれない。
 しかし、
(結依にとっては、長すぎるくらい長かったわよね……)
 考えずとも、依沙はすぐにそれが分かった。そして、結依にとってはもどかしくて堪らない年月だったに違いないとも思う。
「ねぇ結依……長くても……それでも、この家に来て少しは楽しかった? 少しは安らげた? 少しは……幸せだと思えた?」
 依沙は月の中に、結依の姿を思い浮かべながら問いかける。
 答えが来ないのは百も承知だ。それでも、依沙は問いかけてしまった。
 問いかけてからしばらくの間をおいて依沙は小さく一つ溜息を吐く。
(……独りというのは、いけないわね。妙に気の滅入ることを考えてしまう)
 ここしばらく独りになることのなかった依沙は殊更にそれを感じる。
 独りになる時間がない――それは、言い換えれば彼女がいかに幸せなのかということでもある。
 依沙は瞬きもせず、穏やかな目で月を見続けていた。
  月は星々を従え、今日もその存在感を示すように煌々と輝いている。それは日中の陽の光に競うようでもある。
(陽月……ヒヅキ……)
(陽の光り……月の輝き……)
「どちらの光もあなたに味方してくれるといいわね、陽月……」
 依沙は消え入るような小さな声で義妹の名を呼んだ。今はもう、誰も使うことのないその名を。