そんな結依のところに、都の出世頭である右衛門督が熱心に通っているという話は今都中でまことしやかに伝えられている。
もちろん多くの姫君たちはそれを良しとはせず、怒りの矛先を顕貢ではなく結依に向けていた。あくまで顕貢が勝手に結依を選んだだけで、結依が誘いを掛けたわけでも頼み込んだわけでもないのに。
それでも結依に姫君たちの矛先が向くのは女の世の常と言ったところだろうか。
「その姫、いいのは顔だけではなく、床での手練手管かもしれなくてよ?」
しばらくの沈黙を経て、深窓の姫君が言うとは到底思えないような台詞がどこからともなく聞こえた。
次の瞬間、依沙は無表情のままその手に持っていた檜扇をパシリと閉じる。まるでそれは檜扇を割らんばかりの勢いだった。
依沙がこれからしようとしていることを即座に感じ取った結依は、すぐさま彼女の着物の裾を強く引いて何も言わずにただかぶりを振った。
結依は知っている。依沙がこういう表情をする時は腑が煮えぐりかえるほど怒っているのだということを。
恐らく、今回の怒りの理由は姫君たちが羅列した結依への侮辱の言葉。
依沙はすぐさま、何で止めるの? とでも言いたげに悔しそうな表情を結依に見せる。
結依はそれでもその首を横に振り続けた。
確かに結依だって頭には来ている。でも、だからといって言い返そうとか、目にもの見せてやろうとかそういう気は起きない。
何か行動に出れば相手の火に油を注ぐだけ。むしろ、相手は結依が食い付くのを手薬煉を引いて待っているかもしれない。
そう考えれば、こういう時は聞き流すのが利口だと言うことを結依は十分に理解していたのだ。そもそも、こういう場に来ればこのくらいのことは起こるであろうと結依は事前に予測していた。その予測があっての我慢でもある。
やがて姫君たちはなんの反撃もしない結依に飽きたのか、気がつけば再びその熱い視線を顕貢へ送り始めていた。
結依はそんな彼女たちを冷めた目線で見ていた。
「結依」
依沙が再び檜扇を開き、結依の耳元に近づける。
「ここを出て右にまっすぐ進むの。突き当たったら左へ行きなさい。そこでしばらく休んで来るといいわ。もし人に見つかったら道に迷った振りでもしなさい。……心配ないわよ。わたしが何年か前の乞巧奠で抜け出していったことのある場所だから」
依沙は結依にそっと耳打ちをした。
「……義姉様?」
驚いた表情を見せる結依に依沙は続ける。
「あなたが休んでいる間に帰りの車を用意させておくから。……義務も果たしたし、やっぱり気が変わったからさっさと屋敷に帰るわよ。三姉妹や朱鷺、それにうちの茜でも誘って甘いお菓子でも食べることにしましょう。結依も疲れたでしょう?」
依沙は続けて柔らかく笑って見せる。
義姉の優しい思いやりに結依はなんだか嬉しくなり、返事の変わりに微笑みを返して静かに席を立った。
◆◆◆
依沙に言われた通りに来ると、そこは使っていない部屋が奥まで続いていた。それらは小さな中庭に面していて辺りは真っ暗である。
結依は中庭の中央付近まで行き、高欄の側に腰を下ろしたが祭の騒ぎはほとんど聞こえなかった。かえって中庭を流れる遣り水のサラサラという音の方が大きく聞こえるくらいである。
高く昇った月の光がその遣り水を照らし出し、水面がキラキラと美しく輝く。
結依は心から義姉に感謝してその水面を眺めていた。
その時だった。
「こんなところにおいででしたか」
突然の声に結依は徐に振り返る。
「……顕貢様」
結依にその名を呼ばれた本人は彼女の隣にその腰を下ろす。
「警護のお仕事はよろしいのですか?」
「抜けてきました。御簾の内にあなたの姿が見えなくなったので心配になって」
顕貢はニコリと微笑む。
(相変わらず女心をくすぐる台詞を心得ているのね)
結依は顕貢の笑顔を見ながら冷静に考えていた。
「あら、お気づきでしたの。少し疲れてしまって……。でも、顕貢様がいなくなれば、姫君たちが……」
「興味などありませんよ。あなた以外にね」
和やかに話す結依を遮って、顕貢は真面目な顔で短く答えた。
結依は驚いて思わず顕貢を見てしまう。
二人の視線がしっかりと合致する。
「あの場所の警護も、結依姫がいらっしゃると聞いたから志願したまでのこと。あなたがいらっしゃらないのなら警護などする必要もない」
「…………」
真剣な表情で見つめる顕貢に、結依は動きの全てを奪われる。
美丈夫が真剣な顔をすると恐ろしいほど美しさが増し、それは金縛りをも引き起こすということを結依は今身を以て体験していた。
「……ご冗談が……お上手ですのね」
結依はやっとの思いで言葉を絞り出し、顕貢からふいと視線をそらしてその場に立ち上がろうとした。
が、
顕貢は逃げる蝶を捕まえるように結依の袂をクイっと引く。
「きゃぁ……」
予想外の顕貢の行動に体勢を崩した結依は、先ほどよりももっと顕貢に近い場所に腰を下ろす羽目になってしまった。
「冗談などではないと、どうしたら信じていただけますか?」
顕貢は先ほどよりも更に真剣な顔で結依を見つめる。
(近い……)
結依は自らの頬が紅潮するのを感じながらゴクリと生唾を飲み込む。
(そんなに見つめられたら顔中の毛穴が開きそう……)
突然馬鹿みたいな考えが結依の脳裏に浮かぶ。
続けて、
(この人の睫は一体どのくらい長いのかしら?)
どうでもいいことを疑問に思う。
追いつめられすぎた結依の思考回路は、もはやまともな思考を生み出せない。
やがて、あまりの緊迫した空気に結依が息をすることさえ辛くなってきた時だった。
「……です…………か」
「……だ…か……い」
遠くの方で誰かが話す声が漏れ聞こえた。
すぐに人の気配は大きくなり、衣擦れの音と足音が聞こえ始める。
いつの間にか結依から目をそらしていた顕貢は、結依には気づかれないよう小さく舌打ちをした。
(邪魔者め、もう少しだったのに……)
顕貢は向かってくる邪魔者たちを特定して後で仕返しでもしてやろうかと思う。
しかしそれよりも、結衣を人目に晒したくないという独占欲の方がこの時の顕貢の中では勝っていた。
「お名残惜しいですが、邪魔が入りましたね。職務怠慢を見られる訳にはいきませんので、今宵はこれで失礼します。姫も早くお戻りください。ここは立ち入り禁止の区域ですからね」
本当は、
――あなたを誰にも見せたくないから早く戻ってください
そう言いたいのを堪えて、顕貢は考えていることとは裏腹に優しく微笑む。
そして、急かす様に結依を立たせれば、彼は「さぁ」と結依を見送った。
結依はそんな顕貢に小さく一度会釈をする。邪魔者――結依にとっては救世主――の出現によって状況を打破できた結依は、逃げるが価値とばかりに足早に元来た道を歩き始める。
(今日も何とか切り抜けた……)
結依は顕貢に見つめられるのはどうも苦手だ、と思いながらだんだんと歩幅を大きくしていた。
そして、結依がさらに歩調を早めようとした時、
ドンッ
突然受けた衝撃に、結依はすぐに袖口で自らの鼻と目元を押さえる。
「すまない。大丈夫か?」
俯く結依に慌てた様子の男性が声を掛ける。
どうやら結依は誰かと正面衝突したらしい。
普段の結依ならば近づく気配を感じ取ることなど他愛もない事だが、考え事をしていたせいか全く以て気づかなかった。不覚としか言いようがない。
「……こちらこそ、申し訳ございません」
結依は顔を俯けたまま謝りの言葉を述べる。そして、結依はぶつかったのとは別にもう一人、傍に誰かが立っていることを察知した。
「怪我はないか?」
側に立っていた者が持っていた手燭を結依に近づける。声からしてこの人物も男性のようだ。
結依は俯けていた顔をゆっくりと上げ、とにかく謝罪と無事を伝える言葉を述べようとした。
「ええ、ご心配に…………」
――ご心配には及びません
そう言いかけたが、結依はそのまま硬直した。正確には、視界に飛び込んだものにそれ以上言葉を続けることができなかったと言った方がよい。
「お前……」
手燭を持つ男性にそう言われるより先に、結依は自らの顔が確実に引きつっていくのを感じていた。
「結依じゃないか」
手燭を持つ男性の言葉を引き継いだのは結依がぶつかった男性。
結依は現状に泣きたくなる。
まさか避けた行動が裏目に出るとは、夢にも思っていなかった。
「お久しぶりですね。東宮様……それに、之義親王様」
結依は最低限の冷静さを保ちながら正面衝突した男性、手燭を持つ男性の順に彼らの名を呼んだ。
続けて結依は心の中でこれ以上ないほどの深い溜息を吐いた。
(最近怖いほどにツイてないのは、何かに憑かれているからかも……)