「東宮……」
 由之が之親の様子をうかがう。
「何があったのです?」
「…………」
 之親は答えの代わりに、決まりが悪そうにゆっくりと結依の顔を見た。
(部外者がいる前では話せないということね……)
 結依はすぐに之親の行動が意味することを察した。
 しかし、それが当たり前の判断だと納得する。
 由之もすぐにそれを察したのか、一度だけ結依を見やる。
「東宮……結依も馬鹿ではありません。ここで見聞きしたことなど外で漏らしはしないでしょう。話したところで墓穴を掘りかねませんからね。それに、入内もしていない一介の貴族の姫が内裏内のことを話したとしても、誰も信じはしないでしょう。絵空事と笑われるだけです」
 その後、由之は無言のまま結依に目配せをした。それに対して結依は肯定の意を伝える様にゆっくりと深く頭を下げる。
 之親は自分を落ち着けるように大きく一つ息をつく。
 そして、重い口を開いた。
「今晩、宴の席で主上に毒が盛られた」
 之親のその言葉に一瞬にして辺りの空気は凍り付き、誰もが息苦しさを覚えた。
 幼い之仁でさえも周りの空気を感じとって不安な顔を見せる。どんなことが起こっているのかは分からなくても、それが恐ろしいことであるというのは本能で感じるのだろう。
 之仁は心許なくて結依の着物の裾をギュッと掴む。
 結依はみるみる顔色の変わっていく之義と、一刻も早く事の真相を知ろうと意識を研ぎ澄ませる由之を冷静に見ていた。
「父……主上の容態は?」
 之義が震えを抑えた声で聞く。
「命に心配はないが、今は侍医がついてよくお休みになっている。体がよく動かず、それから手が痺れるとおっしゃっていたかな」
 トクン……
 突然、結依の心臓が大きくひとつ脈打った。
 体がよく動かず、手が痺れる――引き金は之親の言葉。
 その時、結依は記憶の底にしまってあった何かをずるずると引き出されるような、とても気持ちの悪い感覚に陥っていた。
――体ガ 思ウヨウニ 動カナイ…………手足ノ先ガ 痺レテイル…………
 トクン……トクン……
 記憶の中で徐々に甦るモノ――それが結依の鼓動を速める。
「解毒は?」
 由之の顔も幾らか青ざめて見えるが、まだ年若い之義とは違い起こっている事実にいたって冷静に対処していく。
「侍医の調合した薬湯を飲んだら痺れも軽くなったとおっしゃっていたし、おそらく解毒は成功だろう」
 その言葉に、皆の安堵の声が漏れ聞こえる。
 しかし、その時その瞬間――結依だけは違った。之親が事実を並べれば並べるだけそれに比例するように結依の鼓動は刺激される。同時に、頭には忌まわしい記憶が次々と甦ってくる。
『大丈夫デス…… スグニ 良クナリマスヨ…………』
『薬デ 痺レモ 無クナリマシタ……』
 懐かしい女性の声が頭の中に溢れかえる。
 その声が結依を過去へと誘う…………
(まさか……そんなことが…………)
 ドクン、ドクン、ドクン……
 結依の心臓はもはや今にも弾けそうなほど鳴っている。
 着物の裾を掴んでいた之仁はいち早くその異変に気づき、怯えた表情でジッと結依を見つめていた。
「最近はよく疲れているとおっしゃっていたからね。侍医も疲れているところに毒が回ったのだろうと言っていたよ」
 バラバラに引きずり出された結依の記憶が、之親の言葉と対を成してだんだんと形を整えていく。
――タマラナイ 脱力感……日々 蝕マレテイク 躰…………
『最近 ヨク 疲レテシマッテ……』
――毎日続ク 微熱…………
『熱ハ ソンナニ アリマセンカラ……』
(まさか、まさか、まさか…………)
(そんな……今更、同じことがあるわけが……)
『心配ハ イリマセンヨ……』
 女性の声が結依の脳内に響く。何度も何度も繰り返して。
 目を閉じれば浮かぶ情景はただ一つ。
 昔住んでいた屋敷。そのうちの一部屋。子どもの時の結依がよく訪れた部屋。
 そこに力なく横たわるのは…………一人の女性。
 背中をつたう冷たい汗に結依は鳥肌を立てていた。
 その時、結依は自分の中で生まれつつある結論を必死に否定しようとしていたが、そんな抵抗もむなしく結論は徐々に形を成してくる。
 呼吸はいつの間にか苦しいほどに荒くなり、肩が激しく上下する。口を開けて存分に酸素を補給しているはずなのに、それは少しも体に入ってこない……
 もはや結依には自らの呼吸音と記憶の中の声しか聞こえない。
『陽月様……泣イテハ イケマセンヨ』
『泣クノハ カ弱キ姫君ノ ナサルコトデス』
――……ミ…ユ…キ………………
 記憶の中の女性が力のない微笑みを見せる。頬に零れた結依の涙を彼女は優しく拭ってくれる。だが、その手は凍えそうなほどに冷え切っている。それは、いつも温かかった彼女の手からは想像もできない様な冷たさだった。
 結依はなんとかそれを温めてあげようと自分の小さな手で彼女の手を包み込む。結依があまりにも力を入れて握ると彼女は笑いながらそっと握り返してくれた。それでも、その手は温かくならなくて……
 記憶の中の彼女の姿が結依の胸をさらにきつく締め付ける。
(……やめて…………)
(もう……もう、やめて…………)
「結依……だいじょう…ぶ?」
 結依の異変に遂に黙っていられなくなった之仁が恐る恐る声を掛ける。しかし、その時の結依にはもう何も聞こえてはいなかった。
 バンッ!
 気づいた時には結依は之親の目の前に立ち、彼の横にあった柱に力強く手を叩きつけていた。
「……主上は、主上は最近疲れるとおっしゃっていただけですか? 違いますよね? 熱があったでしょう? ここ最近ずっと熱があったのでしょうっ!?」
 之親を初めとしその場にいた者全員が、今この瞬間何が起こったのかまったく理解できなかった。
 恐ろしいほどの形相で之親に詰め寄る結依、それを理解できずに立ち尽くす之親……
「ゆ……い?」
 之親は結依の顔を驚愕の表情で見つめていた。
 しかし、その時の結依にはもう自分を止めることはできなかった。
「どうなんです!? 答えてください! 熱があったはずです。……それに足も、足も痺れるとおっしゃっていたでしょう? 歩きにくいって……。主上はまっすぐ歩けなかったのではないですか?」
「お前……どうして、それを……?」
 之親の声は震えていた。
 目の前にいる娘がどうしてそんなことまで知っているのか。疑問に思うと共に之親は正体不明の恐怖を感じていた。
「……当たっているのですね? お願いです……答えてください!! 東宮様」
 結依はさらに之親に詰め寄る。
『大丈夫デス……』
『心配ハ イリマセンヨ』
 繰り返される声に応えるように結依の鼓動がドクドクと騒ぎ立てる。まるで、警鐘を鳴らすかのように。
(……大丈夫なんかじゃない)
(アイツだ……またアイツが……今度は主上にまで…………)
「主上は……体が熱いと言っていた。……それに、歩けなかったよ……。まっすぐどころか……立つこともできなかった。でも、なぜそれを……結依が知っている?」
 之親が声を絞り出すように言った。
 次の瞬間、
 ガタン……
 結依は力が抜けたようにその場に座り込んだ。