千春が総源を連れて宇治から戻ったのは翌々日の朝だった。
 総源は都に着いてすぐ、之親と由之と一緒に人知れず参内した。
 黎明帝が床に伏していることについては、近頃の激務による疲労で体調を崩したという公式発表があったために、毒が盛られたという事実はごくわずかの人間しか知らない。
 結依は内密に由之の屋敷を訪れ、之義や之仁と総源の帰りを待っていた。
「総源殿という方は昔は殿上人だったのだって?」
「ええ、十年前までは典薬頭でした。薬の知識に素晴らしく秀でている方ですよ」
 それは、之義の問いに結依が答えた時だった。
「もう昔の話ですよ」
 突然話に入ってきた声の主、総源は之親と由之と共に簀子縁に立っていた。
「これは……総源様。お久しぶりです。……主上のご容態は?」
「順調に回復に向かっているようだ。初めの解毒が間に合ったのだろう。もうしばらくすれば完全に毒が抜けて元のように元気なお姿になられるはずだ」
「そうですか。……よかった」
 結依は安堵の息を漏らす。黎明帝の容態についてはずっと不安があったが、総源に回復の見込みに太鼓判を捺してもらえばそれはすうっと消えてなくなった。
 総源は今でこそ宇治に隠居してしまったが、確かな腕の持ち主である。
「主上が結依にお礼をしたいそうだ。ただ、主上は結依を薬に詳しいどこかの殿上人と思っていらっしゃるがな」
 之親の言葉に由之と之義が顔を見合わせながら笑い声を上げた。当の本人である結依はといえば、笑いたいが笑えない少々複雑な面持ちだ。
 その後、総源の願いで結依以外の者は皆退出した。



 ◆◆◆



 総源は辺りが静かになったのを確認するとゆっくりと話し出した。
「陽月……いや、今は結依という名だったか? 君に会うのはどのくらいぶりだ?」
「四年ぶりです。総源様が宇治にご隠居なさってから、お会いするのは二度目ですね。お元気そうで何よりです」
 四年前よりもいくらか髭の白髪が増えた総源を、結依は穏やかな顔で見つめる。
 何だか心地の良い懐かしさを覚える。
「相変わらず病にもかからず元気にしているさ。……そうか、もう四年か。裳着を済ませた君が、十四の時に宇治に来てからもうそんなに……。まさか、こんな形で再び会うとはなぁ」
 総源はしみじみと昔のことを思い出していた。
 一方、その時御簾の外には柱に寄り掛かりながら内の話に耳を傾ける影がひとつあった。
「何をしているのだい?」
 由之は背後から聞こえた之親の声に、口の前に人差し指を一本立て目配せをした。
「それにしても、あれの解毒剤の調合法などよく覚えていたな」
「あれは……あれだけは紙に書いて常に持ち歩いているのです。御守り代わりなんですよ。持っていれば深幸が守ってくれる……そんな気がして」
「深幸殿か……随分と懐かしい名だな。しかし、君には忘れられぬ出来事だろうな」
 結依はそれに大きく頷く。
 二人の間に再び短い沈黙が走る。
「深幸殿が亡くなって十二年、嘉月が亡くなって十年か……。陽子(ようこ)殿はどうしておいでだ?」
 総源の問いに結依は顔を少し俯けた。
「総源様は……ご存じありませんでしたか? 十年前から……行方知れずのままです。生きているのか、そうでないのかさえ……分かりません」
 総源はそれにすぐには答えず、何かを考えるように顎に蓄えた立派な髭を上から下へゆっくり撫でる。
「風の噂でそんな話は聞いていたが、まさか本当だったとはな……。君だけは陽子殿の消息を知っているものと思っていたよ。そうか……それではもう九条の家の者は結依殿と三姉妹だけになってしまったのか。……今の、内大臣家での暮らしはどうだ? 何も不自由はないか?」
「はい。義父と義母はもちろんのこと、皆、わたしと三姉妹を本当の家族のように愛してくれています。それに、わたしたちの仕事も黙認してくださっています。不自由どころか十年前死ぬはずだったわたしにとっては幸せすぎますよ」
 先程の話の時とは一変して本当に安心しきった顔で話す結依を見ながら、総源は満足そうに耳を傾けていた。
「私が心配することは何もないか……」
 結依はその時既に御簾の外の気配に気が付いていた。
(中務卿宮様と東宮様……恐らくその二人だろう。彼らにすべてを話すのは、今日がいい機会なのかもしれない)
 結依は一つの決意を固めていた。
「結依殿、遠いとは思うが宇治の私の元にももう少し顔を見せてくれ。まぁしばらくは都に滞在するがな。……さて、私はそろそろ主上の元へ戻ろう。薬湯を飲んでいただく時間だ。そこの二人、入ってきなさい。中務卿宮様、それに東宮様かな?」
 総源が立ち上がるのと同時に、予想通りの二人が御簾の内へと入ってきた。



 ◆◆◆



 総源が帝の元へ向かった後、之義、之仁も結依の元へ戻ってきた。
 之仁は戻って来るなり、お気に入りの結依の隣に寄り添うように座る。
 辺りは沈黙に包まれている。
「昔話を……しましょうか」
 結依はポツリと言った。
「中務卿宮様と東宮様は、わたしが“誰”なのか大体察しがついているのではないですか?」
 しかし、二人は何も答えなかった。
 それを確認して、結依は次なる問いを投げかける。
「質問を変えましょう。……十年前の左大臣、まだ覚えていらっしゃいますか?」
「……十年前の左大臣は……九条嘉月。良く覚えている」
 何かを窺うように答えたのは由之だった。
「そうです。之仁親王様はもちろん、之義親王様も十年前のことでは覚えていませんか?」
 結依は一度之義の顔を見たが、彼は何も反応を示さない。
 続けて親王たちの顔を一通り見回すと、結依は何かを決意するかのように大きく一つ息を吐いた。
 そして、その唇がゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「前左大臣、九条嘉月……。十年前、成安の変で貴之親王暗殺の罪により極刑に処せられた男。それが、わたしの本当の父です」
 一瞬、その場の空気が止まる。
「……結依、ちょっと待ってくれ。私の記憶では彼には三人の息子がいただけで娘……姫君はいなかったはずだが?」
 すぐに話の矛盾に気づいた由之がすかさず問いを挟む。
「確かに。前左大臣九条の子供は、正妻陽子との間に儲けた三人の息子だけ。……世間一般ではそういうことになっていました」
「でも、その息子たちも十年前に全員亡くなったはずでは?」
「ええ、東宮様の仰る通り亡くなりましたよ。兄上たちは二人ともね。……でも、一緒に死んだはずの第三子は、実は未だに生き残っている。そしてその子は……息子ではなく娘だった」
 一瞬にして、辺りを息苦しいほどの沈黙が包み込む。
 誰もが驚きのあまりその目を見開く。
 それでも、由之と之親はやがてゆっくりと互いの顔を見合わせる。もしも結依の話が本当ならば、それはとんでもない真実であるから……
 
 それからしばらくの沈黙を終えて結依は静かに昔話を始めた。今まで決して語られることのなかった真実の昔話を。