長い昔話は終わった。
 重く長い沈黙が続く。
 皆が皆、それぞれに何かを考えていた。
 いつの間にか太陽は傾き、西の空を薄茜色に染めている。
 之仁は結依の瞳に溢れんばかりに溜まる涙を、いつ零れてしまうのか不安に思いながらじっと見つめていた。
「お母上……陽子殿の行方は? 今もご存命なのか?」
 どのくらい経ったのか、一番初めに沈黙を破ったのは由之だった。
「分かりません。生きているのか亡くなったのか……十年前の月の綺麗な晩、北邨家の門のところで別れたきりどこに行ったのか定かではありません。約束通り左大臣の側室になったのかとも思いましたが、母の姿は見あたりませんでした。一度北邨の義父が調べてくれましたが、結局見つからず終いです」
 結依は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。
「左大臣は結依が……九条家の第三子が生きていることは知っているのか?」
 由之は質問を重ねる。
「知らないと思います。あの時、偽の葬儀も挙げて母も喪に服したので死んだと思っているでしょう。それにわたし……結依という姫は内大臣の側室の子で、病気療養をしていた母が亡くなったために引き取られたということになっていますから」
 結依は先程よりもはっきりとした口調で答えた。いつの間にか彼女の瞳に溜まっていた涙は引いていた。
「それならば、知り得る可能性は低いな」
「今、結依が動いている目的は左大臣の失脚か。それとも……暗殺?」
 由之に続いて之親が抑えた声で尋ねた。
「失脚です。父や深幸、それに主上のこと………必ず失脚させてみせます」
「それだけ憎んでいるのに、殺してやろうとは思わないのか?」
 結依は黙ったまま之親の顔を見た。
 答えない結依を之親は射抜くようにまっすぐと見つめ返す。
「愛する者たちの仇討ちでも、結局は自らの手を汚すのが怖いのか?」
「……そんな……そんなこと、怖くなどありません! 馬鹿にしないでください!!」
 結依は思わず声を荒げた。
 同時に、その手をギュッと握りしめる。
「殺す気ならいつでも殺せます。わたしは……あの男を殺すだけの技も覚悟も十分持ち合わせているつもりです。どうしても失脚させられない時には……その命を奪うことも考えています」
 言葉にした通り、結依は自らの手を汚すことなど何とも思っていなかった。そしてどうしても殺さなければならない時は、自分もその命を絶つつもりだった。
 結依は十年前から死ぬ覚悟はできていた。
 自分が陽月として生きられなくなったあの日あの時から、自分の人生は終わったと思ってきたのだ。
「なんとしても……公の場であの男の罪を暴いてみせます」
「結依、お前はなぜそんなに“失脚”という処罰にこだわる?」 
「それは……」
 頭の中に突如流れ込んできた映像に結依は言葉を止めた。
 みんな目を真っ赤にして泣いている――これは、そう……嘉月たちが死んだ日のことだ。
 今にもこぼれ落ちそうな涙を、唇をきつく噛みしめて我慢する陽子。そんな陽子の口元は唇を強く噛みすぎているせいで紅い血が滲んでいる。
 陽子の側では女房たちが同じようにして涙を堪えている。三姉妹も身を寄せ合ってすすり泣いている。
 屋敷中を見渡せば、誰もが皆涙を流して主人の死を悲しんでいる。
(わたしは……)
 あの日、陽月も泣いていた。朝から晩までずっと。寝ている時も夢を見ながら泣いていた。
 深幸が死んだ時に涙は枯れたはずなのに、次の日も、その次の日も、ずっと……陽月は泣いていた。
(あの時……泣いて死ねるのなら、死ニタカッタ……)
(出来ルコトナラ……一緒ニ 死ンデシマイタカッタ…………)
――どうして残されなくてはならならないの? 
 誰もがそう思っていた。
 遺されることはとても辛くて、皆何とかしてその苦しみから逃げたかった。
 屋敷の誰もが最後まで主人の無罪を信じていた。だからこそ、遺されたことが余計に辛かった。辛くて辛くて、そして最後にはこう思った。
――たとえ罪人でも……生きていて欲しかった…………
 泣いても泣いても死は決して迎えに来ない。嘉月も兄も忠臣だった側近たちも……二度と帰っては来ない。
 涙を流すだけ苦しさは増していった。それでも誰一人、泣くことをやめなかった。
 誰もが皆……泣くことでしか自分たちを慰められなかったから。
 そして、苦しみ続けた。長い間ずっと……
 之仁は結依の膝に置いた自分の手に何かが零れ落ちたことに気が付いた。
 結依にはもう涙を堪えることができなかった。視界が一気に歪んでいく。
「ゆい……ないている。どこか……いたいの?」
 之仁は結依の顔を覗き込みながらゆっくりと尋ねた。そして、小さな手で結依の頬を伝う涙をそっと拭ってくれた。
「…………」
 結依はそんな之仁に答えなかった。
 いや、もはや声を出すことができなかったのだ。止まらない涙を袖で拭い、もう泣くまいと堪えようとしたが喉が焼けるように痛んだ。
 その時、答えぬ結依を誰も急かそうとはしなかった。
 辺りはただ沈黙が支配する。
 それからしばらくして、結依の唇からは涙に掠れた声が零れ出た。
「殺せるものなら……もう既に、殺しています」
 皆の視線が結依に集中する。
「殺したって、足りないほど……彼のことは憎んでいます。でも、殺せません……」
「覚悟も技もあるのに、どうして? ……なぜ?」
 納得のいかない之親は声を張り上げる。
 結依はそんな之親を、未だに涙の残る寂しそうな表情で見つめていた。
「東宮様……わたし個人の恨みの気持ちだけで、彼を殺したら……残された北方や側室、子供たちは……どうなると思いますか? 女房や従者たち……は? きっと、泣いて泣いて……過ごしていきます。毎日、左大臣を殺した……わたしだけを憎んで。それは辛いことですよ……。わたしは……とても、苦しかった……」
 結依は過ぎ去った年月を思いだし、一度、その唇をギュッとかみしめた。
 十年という月日……――
 言葉にしてしまえば短いが、ある日突然肉親を奪われた辛さ、怒り、悲しみ……それらを抱えて生きる十年は酷く長いものだった。
 一人の男を憎んで恨んで――その瞳から涙は流れていなくとも、心の中ではずっと泣き続けていた。
 しかし、どれだけ泣いても終わりはなく、どれだけ憎んでも気持ちが晴れることはない。
 永遠に外すことのできない重たい枷のような苦しみ……
 そうして苦しめば苦しむだけ、結依の中では槌屋への復讐心が増大していった。
 絶対に、自らの手で息の根を止めてやろうと。死を以て、その罪を償わせようと。
 しかし、苦しみを抱えたまま長い年月を経るうち、結依はその復讐心と共にある思いを抱いてしまったのだ。
 それは、他でもない遺される者たちのこと……
 自らが経験したからこそ分かる、その行く末……
「遺された者たちが……酷く辛い思いをすると分かっているのに、どうして殺すことができますか……?」
――憎むべきはその本人のみであり、周囲の者ではない
――あの男を殺してしまえば、自らと同じ苦しい運命を辿る者を増やすだけ
 長い月日の間に、心優しき結依が抱いてしまったのはそんな思いだった。
 最初は見ない振りができたその思いも、時を経るにつれて結依の中で大きくなっていった。
 それ故に、感情のまま晴らせなくなってしまった憎しみ……
 しかし、
「でも、わたしには……あの男を許すこともできないのです……。父達の恨みを……忘れることはできません……」
 優しさだけでは到底拭い切ることのできない、強く深い憎しみ……
 この時、この場にいた者は皆、結依の抱える葛藤にその胸を締め付けられる思いだった。
 結依は涙のせいで乱れる呼吸を整えるため、大きく一つ息を吐いた。
「だから……公で罪を暴くよりないのです。現行の法律で裁かれれば、死罪はございません。どんなに重い罪でも、流罪のみ。命だけは……守れます。……遺される者にとっては、生きてさえいればいいんです。たとえ罪人でも……この世に生きてさえいれば……。わたしはこの十年、そう思って……生きてきました」
 その時、由之の頬に一筋の涙が流れた。
 彼はそれを隠すようにすぐに拭ったが、唯一、之親だけはそのことに気づいていた。
「そうだな……生きていれば、生きてさえいれば……なんでもよかったんだ。兄上が……亡くなった時、彼が戻ってくるなら自分が死んでもいいと……思ったよ……」
 由之は静かに言葉を終えた。その脳裏には、生きていた頃の兄、貴之の姿が鮮明に甦っていた。