結依の後ろには之親が立っていた。
「眠れなくて外に出たら人の姿が見えたのだ」
「……月を見ていたのです」
「今宵も綺麗だな。陽のように輝いている」
 二人は無言のまま月を見上げた。
 之親は結依の隣に腰を下ろす。
「綺麗ですが、怖いと……思います」
 結依はポツリと言った。
「怖い……? 月が?」
「ええ。……怖いです。……深幸が息を引き取ったのも、父が連れて行かれたのも、わたしが陽月の名を捨てたのも……全て月の綺麗な夜でした。だから今度は何を奪われるのか……怖いのです」
 沈黙がすべてを包み込む。
 中庭の草木から虫の声が響いてくる。それの他に音はない。
 之親はゆっくりとひとつ息を吐いた。
「お前の父、嘉月が死んだのは私のせいでもあったんだ」
「え……?」
 結依は之親に視線を移した。
 之親は結依に一度だけ優しく微笑んで見せ、そして話し始めた。之親の目で見てきた成安の変を。
 それは結依の知らない成安の変であった。



 ◆◆◆



 十年前の当時、次期東宮候補は稜黎帝の次男貴之親王と、東宮憲之親王の第一皇子之親親王のいずれかとされていた。
 しかしその時、貴之は既に皇位継承権を放棄して之親にすべてを委ねていた。
 なぜなら、彼には大きな夢があったから。いずれ西の大陸に渡り、世界を見てくるのだという大きな夢が。
 貴之は自分を慕う可愛い甥に口癖のように言っていた。
『夢を叶えるためには東宮にはなれぬ』
 貴之は暇さえあれば之親に西の大陸の話をしてくれた。書物で読んだ大陸の魅力を本当に嬉しそうに話してくれた。
 之親はそんな貴之が大好きで、どうしても彼の役に立ちたかった。そして、そうするには自分が東宮になればいいと信じていたのだ。
 貴之の皇位継承権放棄は書状でも交わされていた。
 しかし、それを知るのは之親と貴之、そして稜黎帝、憲之、之親の後見人であった前右大臣、さらに証人として選ばれた嘉月と前太政大臣の七人のみだった。
 当時、之親の後見人であった右大臣、坂口さかぐち希一きいちは病に伏しがちだった。そのため右大臣という職も後見人も名ばかりに過ぎなかった。
 之親は伏せりがちで滅多に顔を見せない坂口よりも、若く行動派の嘉月に次第に懐いていった。そんな事情を知ってか知らずか、坂口も嘉月を頼っていたため、体の弱い坂口にもしものことがあれば次の後見人は嘉月がなるだろうと、いつの間にか誰もが予測していた。
 一方で、貴之も嘉月とは友好的だった。
 之親よりも嘉月と年が近かった分、二人は兄弟のように仲が良かった。それをいつも羨ましく思っていた之親はさらに嘉月に懐くようになった。
 そこには由之や憲之も加わり、皆いつも笑って過ごしていた。互いが互いを信頼し合い、認め合い、彼らの間には皇族と臣下の壁も年の差もなかった。
 之親はそんな生活が楽しくて、いつまでも続いてほしいと望み、また続くものだと信じていた。
 しかし、終止符はある時突然打たれてしまった。
 ある日之親がいつものように目覚めると、火急の知らせが入ってきた。
 貴之が政治的策略に巻き込まれてその命を落としたと。
 それは青天の霹靂で、何が起こったのか理解できなかった。
 之親は自分がまだ寝ぼけていて夢でも見ているのかとも思ったが、それは紛れもない事実であった。
 そして、その殺害の首謀者としてあげられたのは、他でもない嘉月。昨日まで、皆で一緒に笑い合っていた嘉月だったのだ。
 嘉月が貴之親王を殺した動機。
――自らの出世のため、之親親王を次期東宮として擁立したかった
 貴之の皇位継承権放棄を知っている者たちにとってこれほど馬鹿らしい話はなかった。すぐにそれが何者かによって仕組まれた罠なのだと気づいた。
 しかし、一度騒ぎ始めた話は止まるところを知らなかった。右大臣の病も嘉月が毒を盛っているせいだと言う者が出始め、それを証明するかのように右大臣家の使用人と名乗る者が「左大臣に頼まれて毒を盛った」と言い出した。
 それは真実を知る者たちにとっては全てが馬鹿げた話でも、何も知らない者たちには全て辻褄が合う話だったのだ。
 右大臣、坂口はすぐさま異議を申し立てた。稜黎帝も憲之も貴之を失った悲しみに浸る間もなく嘉月を救おうと躍起になった。
 彼らは貴之による皇位継承権放棄を記した書状も公開したが、次第に稜黎帝や憲之までもが嘉月の手中で操られていると噂が立ち始めた。
 既に、事態は収拾という言葉を失っていた。
 嘉月を信じていた者たちは動けば動くほど真犯人の罠に嵌っていった。それはそれは鮮やかなまでに。
 そして、最後に白羽の矢が立ったのは之親だった。
――東宮の座を欲するがために左大臣を使って叔父を殺した
 いつのまにやらそんな噂が都に流れ始めたのだ。
 之親はやがて皇位継承権を剥奪される寸前まで追いつめられた。
 そんな時だった。
 今まで全面的に無罪を主張し続けていた嘉月はあっさりと自分の罪を認めた。自分が貴之親王を手に掛けた、と自白をしたのだ。
 理由は簡単だった。
 嘉月は之親を庇ったのだ。
 之親のためにありもしない嘘を並べて罪を被ったのだ。その身を以てして、次代の君主を守るために。
 すぐにそれを感じ取った之親は、何とかして嘉月を助けようと決めた。
 そして、之親は刑執行前夜に嘉月のいる獄舎へと忍び込んだ。
 きっと嘉月が喜んでくれると信じて。
 しかし、嘉月は泥だらけになって助けに行った之親を見て言った。
『貴之親王も坂口も殺してしまえば私の世になったのに、すべてが台無しだ』
 その時、その瞬間、之親は自分の耳を疑った。
 そこにいたのは之親の知っている優しい嘉月ではなかった。
 之親は自分の目の前にいる男は嘉月ではないと思った。できれば、嘉月であって欲しくないと願った。
 しかし目の前の嘉月は続けた。
『出来損ないが何をしに来た? お前など譲ってもらわねば東宮になどなれないだろうに。出て行け、顔など……』
 確か自分はそこまで聞いて獄舎を飛び出した。
─―顔など……見タクモナイ
 嘉月の口からそんな言葉を聞くのは耐えられなかった。そして、その時の之親の心をずたずたに引き裂くにはそれだけで十分だった。
 子供だった之親は嘉月の演技に騙されて彼がやったのだと信じてしまった。
 之親が嘉月の優しさに気づくにはまだあまりにも幼すぎたのだ。
 何とかして獄舎から遠ざけようとした優しさ、二度と疑いのかからぬよう自分を憎ませようとした優しさ……すべてがすべて優しさで溢れていたのに、之親は気づくことができなかった。
 翌日、稜黎帝達の尽力も虚しく、嘉月は息子と忠臣たちと共にその短い生涯を閉じた。
 嘉月が刑に処されてすぐ、稜黎帝はその位を辞した。ただの体調不良を理由に。
 しかし本当の理由は違った。
 稜黎帝は譲位する前にただの祖父として之親に話した。
『自分を慕ってくれた者を救えなかった』
 そしてこうも言った。
『臣下の一人さえ救えぬ国主など不要だ』
 稜黎帝は心に傷を負っていた。誰にも癒すことのできない深い深い傷を。
 新帝として即位した憲之もまた、嘉月の死で心を病んでいた。しかし新たに国主となった彼には国を動かす使命があった。
 黎明帝は槌屋が左大臣に就くと推測し、その勢力を最低限に押さえようと右大臣の坂口を太政大臣として立てたのだった。
 そして、自らの友を奪った『死罪』という処罰を、その権限を以てして法律の中から抹消した。