深知留の視界に入ったのは一人の男性だった……
 一八〇センチ以上はあろうかという長身にモデルのように長い手足。その身には濃紺のスーツを上品に纏い、淡いブルーのネクタイを白いワイシャツの襟元でキッチリと締めている。
 顔はといえば、ファッション誌に出ているようなそれはそれは端整なもので、彫りは深くハーフと思われるかのような造りだった。
「申し訳ない。私のボタンに絡んだみたいだ。すぐに外そう」
「あ、すみません……」
 先ほどと同じく心地よく響くバリトンの声に、今まで男性に見とれていた深知留は一気に我に返った。
 どうやら、男性の言うように深知留の髪の毛が彼のスーツのボタンにかかったようだ。
 男性は手に持っていたアタッシュケースを足下に置くと、深知留の髪を丁寧に解いていく。
 その振動が髪を伝わってくると共に、深知留はだんだんと自分の頬が赤らんでくるのに気が付いた。
 立ち止まる深知留たちを人々が邪魔そうに避けて通る雑踏で、辺りは十分に騒々しいはずなのにその時の深知留はそんな音など全く耳に入っていなかった。
 ただ、男性の手先が生じさせる振動だけに深知留は身を委ねる。
 こういう感情をなんと表現するのか、深知留は分からなかったが、ただ恥ずかしいと思う。
 元々男性にあまり免疫のない深知留にとって、こんな犯罪レベルにいい男が優しく髪に触れるという状況は、その脈拍を上昇させ下手をすれば一拍か二拍くらい飛ばして不整脈になりそうな勢いだった。
『髪って女の人の性感帯らしいですよ?』
 前に真尋が冗談めかして言っていた台詞がふと脳裏をよぎり、深知留はその顔をさらに赤らめる。
 少し意識を逸らそうと、深知留は男性のスーツの襟元に付くピンバッチへと視線を移す。そのピンバッチは龍がその身で菱形を書くような形をしており、その中央には黒いHの文字があった。
(社章かな? 珍しい形ね)
「なかなか取れないな……」
 手先に集中していた男性が呟くように言ったその時。
たまき様!」
 張りのある声が聞こえたかと思うと、別の男性が人混みをかき分けて深知留たちの元へとやってきた。
「環様、こんなところにおいででしたか」
 男性は少し息を切らせている。随分と走り回ったのだろう。
政宗まさむね
 今まで深知留の髪の毛を解こうとしていた男性、環はやってきた人物をそう呼んだ。
「環様、お急ぎください。もうすぐお時間です」
「分かっている。彼女の髪が絡んで取れないんだ」
 環は政宗の姿を確認すると再び手を動かし始める。
 政宗の登場にすっかり意識が逸れた深知留は、少し気まずそうに環の手元をのぞき込み、続けて腕時計を見た。
 真尋の焦った声が脳裏に蘇り、深知留の気持ちも急く。
(急いでいる時に限って……一体どれだけ複雑に絡んだの?)
 それは一向に取れそうな気配がない。特に、環が深知留に痛みを与えないよう優しく扱っているせいか、絡まった髪はなかなか解けようとしない。
「仕方ないな……。痛かったらすまない」
 環はそう言うと、ボタンとスーツの布地を左右の手でそれぞれに持った。
 その瞬間、深知留は環のしようとしている事を察した。
「あ、駄目、待ってください!!」
「え?」
 何を考えるより先に、深知留はその手で環の手を押さえていた。
 不思議そうな顔をする環をよそに、深知留は今まで抱えていた鞄から携帯用の裁縫セットを取り出し、そこから小さな鋏を抜き取る。
(こんな物でも、持ってれば役に立つこともあるものなのね)
『女の子のたしなみよ』
 以前、そう言って多英子が携帯用の裁縫セットを持たせてくれたことに、深知留は今更感謝していた。
「ボタンをちぎったらスーツの布地が傷んじゃいますから」
 深知留はそう言いながら右手にはさみを持ち、左手で環のスーツの裾を引く。
 一瞬、わずかに香る環のフレグランスが深知留の鼻腔をかすめる。
 悠長にも、いい香りだと思った。
 そして、深知留は自分の目線を髪の毛とボタンが絡み合う部位に近づける。
 次の瞬間、
 チョキン……
「ちょっと! 君!!」
 はさみでモノが切れる音がしたのとほぼ同時に声を上げたのは環だった。
 そばにいた政宗もその目を見張る。
 深知留は何食わぬ顔で他よりも三センチほど短くなってしまった一房の髪を、他の髪に混ぜるようにした。
 深知留が切ったのは他でもない、自分の髪。
「取れました。これで大丈夫です」
 深知留は鋏をしまいながら言った。
『…………』
 環も政宗も無言で深知留を見ている。
「足止めしてしまってすみませんでした」
 呆気にとられる大の男二人に、深知留は軽くお辞儀をした。
「でも君、その髪……」
「あぁ。長いから平気ですよ。混ぜてしまえば他より少しくらい短くても分かりません」
「だけど……」
 なおも食い下がろうとする環に、深知留は腕時計を確認しながら、彼の足下に置かれていたアタッシュケースを持ち上げて差し出す。
「遅れちゃいますよ? ね? お急ぎなんでしょう? わたしも急いでますから」
 環はアタッシュケースを受け取るとすぐに懐から名刺入れを取り出し、そこに何かを走り書いた。
「一週間後、ここに連絡してもらえないだろうか?」
「はい?」
 名刺を差し出す環に深知留はなんとも間の抜けた声を出した。
「一週間後には出張先から帰る。だから、必ずここに連絡をして欲しい。このお詫びをさせて欲しいんだ」
「お詫びとか、本当に良いんです」
「それではこちらの気が済まない」
 環は有無を言わせずと言った感じで深知留に名刺を持たせる。
 時間的に焦っていた深知留は、こうなったら電話をするかどうかは別として受け取った方が話は早いと判断し、その名刺を鞄のポケットにしまった。
「では、これはいただいておきます。それでは失礼します」
 深知留はもう一度ぺこりとお辞儀をすると、そのまま小走りに雑踏の中へと紛れていった。
「環様……」
 深知留が消えていった方向を目で追う環に、政宗が話しかける。
「なんだ?」
「これ……彼女の落とし物でしょうか?」
 政宗が手に持っているのは赤い小振りのカードケース。中身を開くとそこには学生証と自動車運転免許証が挟まれていた。
「帝都大学大学院理工学系研究科修士課程二年、天音深知留……大学院生か」
 環はそれだけ確認すると、そのカードケースをスーツの内ポケットに収めた。
「急ごう、政宗。フライトに遅れる」