「昨日はホンット、すみませんでした。お詫びにこれ全部奢ります」
 一晩明けて翌日の昼食タイム。
 深知留は真尋と一緒に大学校内のカフェにいる。
 結局昨日は深知留が慌てて戻ってみれば、機械の故障はパニックを起こした真尋の勘違いで単にコンセントが抜けていたというオチだった。
 何事もなくて良かったのだが、空港から大急ぎで帰ってきた深知留は骨折り損のくたびれもうけだ。
「深知留、久しぶりだな。横居さんも、こんちには」
 そんな声が深知留の頭の上から振ってきたのは、深知留と真尋が食事を終えてアイスティーを飲んでいる時だった。
「あら、あおい。珍しいじゃない、こんな時間に悠長にカフェにいるなんて」
 真尋は深知留に続けて、やってきた人物に軽く会釈をする。
「まぁな。今日は珍しく急ぎの仕事もないから、学生らしく普通に登校したよ。俺もそろそろ本格的に論文を書き出そうと思って。ここまで来て留年はちょっと避けたいからな」
 蒼は深知留の目の前の席に腰を下ろした。
 蒼……華宮はなみやあおい。実はあの鉛筆からロケットまで作ってしまう華宮グループの若き総帥であったりする。
 そんな蒼は、総帥業の他単なる大学院生という別の顔を併せ持っており、深知留の二十年来の幼馴染みだ。
「時間があるならたまには由利亜ゆりあちゃんのために早く帰ったらどう? この前も『蒼さん忙しくてなかなか顔を合わせられない』って落ち込んでたけど?」
 深知留は唐突に、蒼の妻、由利亜の名前を出した。
 実はこの蒼、新婚ほやほやである。しかも、その妻である由利亜はまだ女子高生というトップシークレット付き。
 二人は出会いから紆余曲折を経て結婚したわけだが、由利亜が高校生のうちは婚約が発表されているだけで結婚の事実は一部の者たちしか知らない。そんな深知留はそのごく一部の者であるが、真尋は事実を知らない人間なので、それを気遣って深知留は敢えてぼかした表現を使う。
「そうしたいところだけど、最後の文化祭に向けて今はあいつの帰りが遅いんだよ。意外とタイミングって合わないもんでな」
「そうか、確か、由利亜ちゃんそんなこと言ってたっけ……それは残念だこと」
 深知留は残念そうな素振りは少しも見せず、むしろ笑みを零しながら自分の髪の毛を一房指にくるりと巻き付ける。
「そう言えば、多英子おばさんそろそろイギリス行くんじゃなかったか?」
「うん、昨日の便で飛んだの。三ヶ月は向こうに滞在だって。うまくいけば年末帰国するって言ってたけど、年明けになるんじゃないかな」
「そうか。無事行ったのか。深知留、それよりお前……髪切ったか?」
 自分の髪を指に巻き付けては解いて、を繰り返す深知留を見ながら蒼が問いかけた。
「蒼って……相変わらず凄い観察力してるのね」
 深知留は感心、とばかりに笑ってみせる。
 真尋は蒼に言われて初めて「ホントだ」と気づいた様子だった。
「切った割にはあんまり変わってないよな? 失恋でもしたか?」
「残念ながら、失恋じゃないです。昨日母を空港まで見送りに行ったんだけどね……まぁ色々あったのよ」
 深知留はそう言うと、昨日空港で起こった出来事を蒼と真尋に話し始めた。
 多英子を見送った後、深知留の髪の毛が環のスーツに絡んでしまったこと。その髪を鋏で切ったら、お詫びに、と環が名刺を置いていったこと。
「まぁ、切ったと言ってもほんの一房だし混ぜちゃえば分からなかったんだけどね。昨日は美容院がレディースデーだったから寄って揃えてもらって、ついでに剥いてもらったの。ちょうど伸びて邪魔になってきたところだし」
 深知留は昨日より幾分軽く短くなった髪を指で掬う。
「だったらぁ、電話してみたらいいんじゃないですか? お詫びしてくれるって言ってるんですし。しかも結構イイ男だったんでしょ?」
 真尋は深知留の話を聞き終えるなり何かを企んでいるような笑みを見せながら言った。
 イケイケオーラ満載の真尋らしいコメントだ。この種の積極性は深知留にとってはある意味羨ましかったりする。
「そうだけど……。でも結構年上じゃないかな? 落ち着いてたし、三十は越えてたかも」
「えー。十歳差くらいまでなら十分範疇じゃないですか〜。ねぇ、華宮さん?」
「え? あ……まぁね……」
 真尋は深い意味など無く話を振ったのだが、振られた蒼は年の差がある妻の顔を思い浮かべながら体裁の悪そうな顔をする。
「大体、深知留さんは甘いんですよ。イイ男にはイイ弟が付いてるかもしれないじゃないですか。上過ぎるのが嫌なら、弟狙いって手があります。深知留さん、面倒見いいし、意外と年下の方がお似合いかも」
「…………」
(真尋ちゃんて……転んでもただでは起きないなぁ……)
 むふぅっと嬉しそうに笑う真尋を、深知留は冷静な目で見ていた。
「でも、躊躇無く髪切るってのが深知留さんらしいですよね。わたしだったら絶対スーツのボタンちぎらせてます」
「で、深知留、相手はどんな人だったんだ? 名刺、貰ったんだろう?」
「さぁ……そう言えば名刺もらったまま見てないや。確か、ここに入れたような……」
 蒼の問いに深知留は鞄のポケットをごそごそと探る。
「あ、これこれ。えっと……龍菱りゅうびしさんさんだって」
 深知留は取り出した名刺にある名前を読み上げる。
『菱屋物産株式会社 常務取締役 龍菱環』
 名刺にはそう書いてあった。裏側を返せばそこには外国人用と思われる英語版が印刷されている。
 昨日、空港で見た時は随分若いと思ったが、常務というからにはもしかしてかなりの童顔なのかもしれない、と深知留は密かに思った。
 ふと深知留が蒼に目をやると、彼はいつの間にか眉間に皺を寄せていた。
「……どしたの? 蒼」
 深知留は恐る恐る呼びかける。
「その名刺、見せてみろ」
 深知留は言われるままに蒼に名刺を渡す。
「なぁ……」
 蒼がポツリと呟いたのはそれからすぐのことだった。
「何よ?」
「深知留……お前もしかして、いや、もしかしなくても……」
「だから何?」
「とんでもない奴と知り合ったぞ」
 蒼はゆっくりと名刺から視線をあげた。
「あ、常務さんってやつ? 若そうに見えたんだけど、偉かったんだね」
「そうじゃなくて」
 あっけらかんと答える深知留を蒼はすぐさま否定する。
「じゃあ何よ?」
「深知留、菱屋ひしやグループって知ってるか?」
「菱屋? ……菱屋デパートとか菱屋銀行とか、菱屋運輸? ……その菱屋?」
 深知留は自分の記憶にある菱屋と名の付く物をいくつか挙げていく。
 すると、
「もしかして……」
 そう切り出したのは今まで黙っていた真尋だった。
「主に金融、商業関連で世界規模で事業を展開してる……あの菱屋グループのことですか? 確か、その中核企業といわれるのがこの菱屋物産……でしたよね? 要は菱屋グループの親玉みたいなもの」
「正解」
 蒼はそう言いながら名刺を深知留の方に向けて机の上に置く。
「……ず、ずいぶん詳しいのね、真尋ちゃん」
 新聞の経済面かもしくは政治経済の授業でしか耳にしないような言葉を並べていく真尋に、深知留は少し驚いていた。少なくとも、今までの記憶の中で真尋が政治経済というものに興味があったとは思えない。
「あぁ、彼氏が就活の時菱屋グループを狙ってたんですよ。結局、菱屋物産は駄目で銀行の支店でしたけど。まぁそれもどう考えてもまぐれなんですけどねぇ」
 真尋はあははと笑う。
「その菱屋グループ総帥が龍菱って名だよ。確か現総帥は、龍菱りゅうびし尚蔵しょうぞう
「え?」
 深知留は思わず蒼に聞き返す。
「だから、この龍菱環って男、もしかして創始者の一族なんじゃないか? 見た目若かったんだろう? それなら若くして常務、ってのも頷ける気がする」
 蒼は今ひとつ状況が飲み込めない深知留に対し、名刺の名前を指でトントンと叩く。
「嘘ぉ……」
「こんな状況で嘘言うかよ。それに、俺だって商売敵の名前くらい把握してる」
「そりゃ蒼を信用して無いワケじゃないけど……」
 深知留は改めて名刺を手に取り、まじまじと見つめる。
 その時、
 ピロロロロロ……ピロロロロロ……
 携帯電話がけたたましく鳴った。
「あ、俺。ちょっとごめん」
 蒼はポケットから携帯を出して席を立つ。
「ねぇ……深知留さん、菱屋グループって言ったらあの華宮グループや樹月きづきグループに多少の引けはとれどもかなりのモノですよ?」
 真尋は蒼が席を立つのを見計らったように話し出した。
「華宮に樹月ねぇ……」
 日本の経済界における二大巨頭の名前を復唱しながら、深知留は名刺を見ていた。