「天音深知留ちゃん、だね?」
 男性、龍菱環は深知留を半強制で車の中へ誘導した後、その車体を発進させながら問いかけた。
「そ、そうですけど……。名前、どうしてご存じなんです?」
 深知留は恐る恐る答えながら彼に質問を返す。
 どんなに記憶を辿ってみても深知留は空港で彼に自己紹介をした覚えはなかったから。
「深く知って留める……良い名前だね。これ、悪いけど中を確認させてもらったよ」
 そう言って環は深知留に赤いカードケースを差し出す。
「あっ!! ……え? えぇ?」
 深知留は驚きの声をあげながら、咄嗟に自分の鞄の中をまさぐる。
 しかし、あるはずのソレは見つからない。
「わたしの?」
 深知留は問いかけながら環からそのカードケースを受け取る。
「そう深知留ちゃんの。困っているだろうと思ったんだが……もしかして、落としたことに気づいてなかった?」
(はい。全然、微塵も気づいていませんでした。……って、気づかないわたしってどうなのよ?)
 深知留は心の内で密かに自分に突っ込む。
 そんな深知留を知ってか、環は前方を見据えたままふふっと笑う。
 しかし、言い訳をすれば学生証なんて滅多に使うモノでもないし、免許証だって普段は運転しないから必要ない。だから、深知留がそれらを無くしたことにさえ気づかないのも無理はなかった。
 今まで俯き加減にカードケースに向けていた視線を、深知留は恐る恐る隣の環へと移す。
 前回と変わらず、綺麗な顔が深知留の視界に収まる。ただし、今は運転中のため横顔であるが。
 それを見ながら深知留は、まるで美術彫刻のようだと思った。
 しかし、今日の環は前回とは少しイメージが違う。
 前はスーツでビシッと決めていたのに対し、今日の環は至ってラフな支度をしている。
 仕事が休みなのかな、とどうでも良いことを深知留はふと疑問に思う。
 それに前回はしっかりとと固めていた髪も今日は自然のままに流しているため、柔らかいイメージを持たせる。
「ずっと……待ってたんですか? あの場所で」
 深知留は環の横顔を見ながら尋ねた。
「三十分くらいだよ。あんなに早く出てくるとは思わなかった」
「今日はいつもより少し早く終わったんです。だから……」
「それは好都合だった。深知留ちゃん理工学系だろう? だから、実験の関係で夜中まで出てこなかったらどうしようかと思った。学生証によれば、深知留ちゃん宗本むねもと教授の研究室じゃないか?」
「よく……ご存じですね?」
 環の言うように、学生証には確かに所属研究講座名まで明記されている。しかし、教授の名前まではさすがに書かれてはいない。
「俺、卒業生なんだ。宗本教授のところの。あの研究室で一応、修士号までとってるんだよ。まぁ今は全然関係のない仕事に就いているけどね」
 不思議な顔をする深知留に環は補足説明をした。
(先輩……だったんだ)
 深知留は環の説明に素直に納得する。
「宗本教授、あの人完璧主義者だろう? だから実験のデータが出るまで帰れない……なんて可能性は十分考えられたから、一応待つ覚悟はしてた。もっとも夜の暗がりに君が出てきても見分けられなかったかもしれないけれどね」
 環はあははと笑った。
「今日、研究室のセミナー発表の当番だったんです。急ぎの実験もなくて、だから早く終わって……。でも、もしも、夜まで待ってもわたしが出てこなかったらどうするつもりだったんです?」
「また別の日に同じ場所で待つつもりだった」
「それでも見つからなかったら?」
「そしたら、研究室に行ったかもしれないな。いずれにせよ、そのカードケースは返さなきゃならなかったし。……深知留ちゃん、まだ他に聞きたいことが?」
 環の語尾は少し笑っていた。
 深知留は思わず赤面する。
 場の空気に耐えられなかった深知留は、思いつくまま環に質問を投げかけ続けていた。
 彼がそれを嫌がることなく答えてくれていたため、深知留は今この時まで自分の非礼に気づかなかったのだ。
 深知留はそれなりに空気の読める人間だ。だからいつもの彼女ならこんな非礼はまずしない。
 しかし、極度の緊張状態にある今の彼女には致し方のないことだった。
 よく知りもしない男性と二人で車に乗っている、深知留にとってはそれだけでも気遣うことなのに、彼女が乗せられたのは超がつくような高級外車。
 おまけにこの車、左ハンドルで右側が助手席のため、窓から見える景色も今まで深知留が経験したどれとも合致しない。もちろんシートベルトもいつもとは逆位置でなんだか変な気分だ。さらに車のシートは高級感溢れる革張りで、間違って汚しはしないかと無駄に不安になる。
 今の深知留はとにかく身の置き場すら無かった。
(警察の尋問じゃあるまいし……何やってるのよ、わたし)
 深知留は環を質問攻めにした自分を少しばかり反省する。
 しかし、もう一つだけ、深知留には確認したいことがあった。
「あの……じゃあ、もう一つだけいいですか?」
 深知留は怖ず怖ずと切り出す。
「龍菱さんて、あの菱屋グループの龍菱さんですか?」
「そう。総帥は俺の祖父だよ」
 環は動じることなくさらりと応えた。
 やっぱりそうなんだ、と深知留は納得する。蒼の予測は間違っていなかったようだ。
「深知留ちゃん、今度は俺に聞かせてくれないか? ……君がどうして連絡をくれなかったのか。出張先から戻って一週間以上も待ったんだけど?」
 環の質問の後、二人の間に短い沈黙が流れる。
「……龍菱さん。わたし……お詫びなんてしてもらうつもりは本当にないんです。それに学生証まで届けていただきましたし……」
 少しばかり返答に困った深知留だが、結局単刀直入に本心を述べた。
「あの時は髪もだいぶ伸びていたし、美容院に行ける機会がもらえてラッキーってくらいで……。ほら、短くして少し剥いてもらったんですよ……って揃えたくらいしか切ってないから分かりませんよね」
 深知留は照れ隠しにははっと笑う。
「君は優しい子だね」
 信号待ちになったついでに、環はその美術品のような顔を深知留へと向けた。
(――――!!)
 環と目があった瞬間、深知留の心臓がドキリと跳ね上がる。
 深知留はそれを長いこと直視できずにワザと視線を外す。
「でも、それではこちらの気が済まない、と前にも言っただろう? お願いだから、何かさせてくれないか?」
 自分を見つめ続ける環の視線を横に感じながら、深知留は決して左を見てはいけないと自分に言い聞かせて紅潮しそうになる頬を押さえる。
 深知留はこんな犯罪レベルに端整な造りの顔と見つめ合ったら卒倒する自信が十分にあった。先ほど一瞬目があっただけでも脈拍が上がったのに、その目を凝視なんてしたら徹夜明けの深知留の体は一発KOだ。
「そういうわけで深知留ちゃん。これから少し付き合ってもらいところがあるんだけど、いいかな?」
 返事をしない深知留に環は新たな誘いを掛ける。
「どこに、ですか?」
「まぁ、それは行ってからのお楽しみで。……家に連絡は? と言っても、遅くならないうちに送って帰るつもりだけど」
 言いながら環は自分の腕時計を見る。
 つられるように深知留は、車の空調設備のそばに内蔵されているデジタル時計に目をやる。
 時刻はちょうど四時を回ったところだった。
「……連絡は、大丈夫です」
 現在、独り暮らし同然の深知留にとってそれは全く問題がなかった。だからといって羽目を外すつもりは無いが、遅くならないうちに送ってくれるというのだから大丈夫だろうと思ったのだ。
 それにセミナーも終わったことだし、と深知留は少しだけ自分を甘やかす。
 環は信号が青に変わったのを合図に、アクセルを踏み滑らかに車を発進させた。