「ありがとうございましたー」
 そんな声を背中で聞きながら、環と深知留は自動ドアから店外に出る。
 深知留は満足そうに笑みを浮かべながら白い袋をその右手に提げていた。
「深知留ちゃん……本当にソレでいいのか?」
 車に乗り込むなり、環は不安そうな顔で深知留を見る。
「え? 十分すぎるくらいですけど。だってこれ、凄く高いですし」
 深知留はそう言いながら、相変わらずのニコニコ笑顔で袋から色違いの板チョコレートを二枚取り出す。
 深知留はあれからすぐに環と共にあのブランドショップを出た。もちろん何も買い物をせずに。
 そして、深知留は何が欲しいかを教えないまま、環の運転する車をあるコンビニエンスストアにまで誘導したのだ。
 そこで手に入れたのが二枚の板チョコレートである。
「板チョコなんて普通、百円くらいで買えるのにコレは五百円もするんですよね。しかもこのコンビニ限定だし。今日のセミナー終わったら自分へのご褒美に買おうってずっと狙ってたんですよ。本当はどっちか一枚で我慢しようって思ってたんですけど、ミルクとビター二枚も買ってもらっちゃってラッキーでした」
 コンビニエンスストアの駐車場にはおおよそ不釣り合いと思われる高級外車の中で、深知留の喜び勇んだキャッキャという高い声が響く。
「チョコレートが好きならゴルディーバの物を……」
「駄目です。ゴルディーバなんて」
 チョコレート業界の超一流ブランド名を口にした環を深知留はすかさず止めた。
「あれは一粒で三百円とかですよ? わたしの場合、もったいなくて眺めてる内に溶けちゃいます。コレも普段なら絶対買えません。だってコレ、コンビニに行くたびにいっつも商品陳列棚で異彩な光を放ってるんですよ。それはまるで、オレはその辺のチョコとは訳が違うんだぜ、って言ってるみたいで」
 楽しそうに笑う深知留を見ながら、環は思わずふふっと笑みを零した。
 その笑顔を見た深知留は反対に、突然その動きを止める。
「……あの……わたし何か変なこと言いました? ……あ……そうか、すみません……わたし嬉しくてはしゃいじゃって……。うるさかった、ですよね?」
 急に恥ずかしくなった深知留は助手席でシュンとなり身を縮める。
 調子に乗りすぎた、と深知留は反省していた。
 欲しかったものを手に入れられた高揚感もあったが、多英子がイギリスに行ってからというもの、プライベートな時間に年上の誰かと話す機会が無かった深知留は、この時必要以上に饒舌になっていたのだ。
「そうじゃない。ただ、君があまりにもおもしろおかしく話すものだから、つられてね」
 環はそう言いながらも笑いがこみ上げてくる様子だった。
「チョコレート二枚で、そんなにも喜んでもらえるなんて思っても見なかった」
「……すみません」
「深知留ちゃん……なぜ、謝るんだい?」
 すっかり俯いてしまった深知留を環はのぞき込む。
「だって……龍菱さんはせっかくあんな素敵なブランドショップに連れて行ってくれたのに……なのにわたし、こんなコンビニのチョコレートなんてお願いしちゃって」
 少し冷静さを取り戻した深知留は、調子に乗りすぎた事以外に別のことでも少し反省していた。
 自分が環にさせた行為は彼の心遣いを踏みにじるものではなかったか、と。
 本当はいらなくても、先ほどのブランドショップでネックレスの一つでもおねだりをするのが大人のマナーだったのかもしれないと、深知留は後悔をし始めていた。
「でも、深知留ちゃんはそれが欲しかったんだろう? だったら何も問題はない。君が謝ることでもない。それに、俺は女性にプレゼントをしてこんなに喜んでもらったことはないよ」
 環から返ってきたのは思いの外優しい言葉だった。
 それは深知留を元気づけるための言葉にも聞こえたが、お世辞でも何でもない環の本心であった。
 環はこれまでに幾度と無く女性にプレゼントをしてきた。それが仕事上の付き合いであっても、プライベートであっても。
 しかし、そうして贈り物をしてきた女性たちは皆、ブランド名の高名さで喜んだ。彼女たちの喜びはまるで値段に比例するかのようで、高ければ高いだけ喜び満足した顔を贈り主の環に見せたのだ。
 それ故、環はいつしか誤解していた。より値の張るもの、より高名なものを選ぶことが女性たちを喜ばせるのだと。
 だから今日も深知留をあのブランドショップへと連れて行った。その知名度も値段も劣るものは無かったから。
 ところがどうしたことか、深知留は少しも喜ばない。それどころか困った顔をする始末である。
 ならばもっと値の張るブランドが欲しいのかと問えば、深知留が環にねだったのは子供だましのようなチョコレートだった。一流メーカーでも何でもないどこにでもあるような板チョコレート。
 それも箱で買うかと問えば一枚だけでいいと言う。何枚でも構わない、と環がいくら勧めても一枚で十分だと深知留は言った。それでも気持ちだから、と環は押しつけ半分に二種類のチョコレートをプレゼントしたのだった。
 そんな二枚で千円程のチョコレートなのに深知留は本当に喜んだ。小さな子供のようにはしゃいで嬉しそうに笑った。
 環はそんな深知留が新鮮で、そして興味が沸いたのだ。少なくとも環にとって、深知留の様な人間は今まで周りに存在し得なかったから。
「君の顔を見てればそのチョコレートがどんなに欲しかったのか分かる。さっきも言ったが、あのブランドは、アレなら女の子は皆喜ぶと俺が思いこんでいたんだ。だから、どちらかと言えばここで謝るのは深知留ちゃんより俺の方だよ」
 環は未だ俯き加減の深知留に優しく笑いかける。
「それは……ちょっと違います」
 深知留は少しだけ顔を上げた。
「龍菱さんは大人で、それに社会的地位もあって……。だからきっと……龍菱さんのそばにいるような女性は、みんな素敵な方たちばかりでしょう? そんな方たちなら……あんなプレゼントは凄く喜ぶんだと思います」
 深知留は途切れ途切れに自分の思いを言葉にしていった。
「でも……あの……わたしはまだ学生で、だから……あんな高級なブランドショップに行っても、何を選んで良いかさえ分からないんです。確かに……どれも素敵だとは、思うんですけど。それで……その……たぶん、やっぱり今はわたしが謝るところです。ごめんなさい」
 深知留は一生懸命に言葉を並べてみたものの、やっぱり最後は謝りの文句しか出てこなかった。
 要は『龍菱さんの心遣いは嬉しかったです。でもその好意を無駄にしてしまってごめんなさい』というような事を実例を交えて巧く伝えたいのだが、深知留は理論的に文章展開のできない自分の低能さに少し自己嫌悪になる。
 そして、だって国語嫌いだもん、理系だもん、と深知留は自分に言い訳をしてみた。
 環は再びシュンとなってしまった深知留を何とも穏やかな表情で見つめていた。
 深知留にとっては自己嫌悪でも、環にすれば拙い言葉でそれでも精一杯に思いを伝えようとしてくれた彼女がいじらしく写ったのだ。
(……君がそんな子だから、あの時躊躇すること無く髪を切ってくれたんだろう?)
 環はそんな疑問を心の内で深知留に投げかけていた。
 深知留がもし、ブランドものを喜んで選ぶような子であったらならば、きっとあの時自分の髪など切ってくれやしなかった、と環は密かに自信を持っていた。