「深知留ちゃん、せっかくだから食べてみたらどうだ?」
すっかりしょげてしまった深知留に、環は空気を切り替えるように提案した。
「え? 良いんですか?」
深知留はそれにうって変わって嬉しそうな顔を見せる。
「でも……」
と、深知留はすぐにその顔をわずかに曇らせた。
「何?」
「車、汚しちゃうと困るし。それに、チョコレートの匂いも……」
「構わない。良かったら一欠片くれるか?」
深知留は環の申し出に再び満面の笑みで答えた。
「もちろんです。どっちが良いですか? ビターとミルク」
「じゃあビターを」
環はコロコロと表情を変える深知留を、まるで小動物のようだと思いながら見ていた。
深知留は楽しそうにチョコレートの包みを開いていき、パキリとその一部を割る。そして特に考えることもなく環の口元に持って行った。
「ハイ」
深知留は全く以て無意識だった。
普段、真尋や蒼、他の友達にしているように、環に対しても何の計算もなく単なる習性でそうしてしまったのだ。
しかし、それに驚いたのは環だ。
(これは……食べろということか?)
すぐさま環の脳裏に浮かんだのはこの疑問だった。
次に、こんな事をされたのは一体どれくらい振りのことだろうかと考える。
しかし、考えても答えは出ない。とりあえず、記憶に残っていないほど昔であることには違いない。
口を開けたらいいのか、それとも手で受け取るべきなのか、環は少し躊躇していた。
すると、
「あ、やだ、すみません……わたしってば、つい」
環の困惑した顔にようやく自分の失態に気づいた深知留は、その手を引っ込めようとした。
が、
「待って」
環は深知留のその手を素早く掴んだ。
深知留の驚きがぴくりという振動で環の手に伝わる。
「ありがとう」
環はそう言って深知留の手を自分の口元に引き寄せ、チョコレートに口づける。その拍子に、彼の唇が深知留の指もわずかに啄んだ。
その瞬間、トクン、と深知留の心臓が大きく一つ脈打った。
彼女にとっては不慣れな柔らかい感触。
そして環はチョコレートを美味しそうに頬張りながら、作り物ではなく本当に嬉しそうに笑みを零した。
深知留はその笑顔を見ながら、お日様みたいに笑う人だと思った。そして可愛らしいとも。
年上で大人の環に何とも失礼な表現だとは思うが、深知留は今日これまでに数種類の環の笑顔を見ていて、そのうちのいくつかは今と同じような印象を持っていた。
そうやって無意識のうちに環を見つめていた深知留が間違いだった。
深知留は思わず環とその目をがっちり合わせてしまったのだ。
「本当だ。美味しいね」
環は子供っぽさのある笑顔で囁くように言った。
その美術品のような笑みに、深知留は思わず鼻血を吹き出しそうになる。まだ、チョコレートを一欠片も食べてないのにもかかわらず……。
深知留の心拍数は一気に跳ね上がり、環に捕まれたままの手を慌てて振りほどいた。そのまま捕まれていたら、自分の心音がばれてしまうと思ったから。
そして、何もなかったかのように深知留はチョコレートをパキリと割る。
流れ作業のようにすぐにそれを口に放り込むが、その時の深知留にチョコレートを味わっている余裕など微塵も無かった。
ただドキドキとうるさいほどに鼓動が聞こえて、それを落ち着けるようにチョコレートを口内で溶かすのが精一杯。
その時だった。
ピロロ……ピロロ……ピロロ……
何かが突然けたたましい音で鳴った。
「すまない。仕事の電話だ」
環はそう言うと懐から出した携帯電話を片手に車から降りていった。
◆◆◆
深知留の口内に芳醇なチョコレートの風味が広がってきたのは、環が車を降りてしばらくしてからの事だった。
大事な話なのか、環は車から随分と離れたところで電話をしている。
時間的にはかれこれもう十五分が経過しようとしている。
(やっぱり美味しいな……)
ようやく味わうことのできたチョコレートを、深知留は名残惜しそうに口内でゆっくりと溶かしながら電話をする環の姿を眺めていた。
そして、深知留はその手である物を摘んで視線の高さまで引き上げる。
「これ、返さなきゃ……」
深知留は鞄の中から取りだした社員バッチを手に持っていた。
社員バッチを返す……その一番大切な用事を、深知留は今の今まですっかり忘れていたのだ。まぁ、あり得ない展開に忘れてしまった、とも言えるが。
先ほど環が言った、仕事、という単語で深知留はそれ思い出したのだ。
深知留は、一度社員バッチに向けた視線を再び環に戻す。
最近の日暮れは早く、辺りは既にどっぷりと日が落ち真っ暗闇となっていた。
時計はもう少しで六時半を指そうというところである。
その時深知留は、いつの間にかやってきた睡魔と必死に戦っていた。
車内はエンジンこそ掛かっていないものの、ほんのりと温かく心地よい。助手席のシートは座り心地抜群で車の中にいるということさえ忘れそうな勢いだ。
何となく空腹感を覚えていた胃も、今は美味しいチョコレートで十分ではないが満たされつつある。
徹夜明けの深知留にとって、今の状況は『どうぞお休みください』といわんばかりのものであった。
しかし、深知留だってそれなりの常識は弁えている。
こんなところで寝るのは失礼極まりない、と。
だから必死で睡魔と戦っていた。友好条約を結びたくて堪らない上下の瞼を、理性とい名の反対勢力で決別させようと…………
それから数分後、
「お待たせ、深知留ちゃん」
環はすっかり冷えた両手を擦り合わせながら車に乗り込んだ。
「…………」
深知留は何も言わない。
「少し込み入った話で……すっかり待たせてしまったね」
「…………」
環の謝罪をよそに、深知留は一言の返答もしない。
「深知留……ちゃん?」
三十分近くも独りで放置してしまったことを怒っているのか、と不安になった環は助手席で窓際に寄りかかり気味に俯く深知留の顔をのぞき込む。
車内に射しこむコンビニエンスストア内からの光を頼りに環はその目を凝らした。
(寝てる……のか?)
深知留はあどけない顔で穏やかに寝息を立てていた。結局睡魔に負けてしまったのだ。
環はふと、深知留の手に目をやる。
左手にはチョコレートの包み、右手には見覚えのある小さな物が乗っていた。
「これは……俺の……」
環は呟くように言った。
出張先で気づいた時には無くしていた社員バッチがそこにはあったのだ。
どこかで落とした物とは思っていたが、まさか深知留が持っているとは、環は夢にも思わなかった。
環はしばらく深知留の寝顔を見ていた。
つい先ほどまで笑ったり落ち込んだり困ったり、百面相をしていたのに少し目を離した隙に眠ってしまった深知留。
(まるで小さな子供みたいだな……)
環は静かに笑みを零し、深知留を起こさないように社員バッチをそっとつまみ上げた。
そして、彼女のコートのポケットへそっと忍び込ませた。