土曜の午前中、深知留は駅のロータリーで待ち人をしながら求人情報誌を開いていた。
待っているのは環。
真尋の策略と言うべきか、深知留は結局環と会う約束をしてしまった。
あの日深知留が、社員バッチを自分が持っているので郵送したい、という旨を環に伝えると、彼は今日なら仕事が落ち着くから取りに行く、と土曜の朝九時を指定してきたのだ。
そして、お礼に食事をごちそうするよ、と言って環は深知留の返事を聞かずに電話を切ってしまった。それも、返答を待てば深知留が遠慮すると知っての事だろう。
おかげで、昨日の夜、深知留はクローゼットをひっくり返さなければならなかった。
環のことだから恐らくそれなりにイイお店に連れて行かれると予測していた深知留は、前回のように分不相応な格好で肩身の狭い思いをするのはまっぴらだったので、今日はできる限りのおしゃれをしてみた。
今朝はこの秋一番くらいに冷え込んでいたが、スカートくらいは穿かないと様にならないと思い、深知留は普段はあまり穿かないそれを穿いた。
ふと腕時計を見ると時刻は八時五十五分になったところだ。
(食事に行くだけなのに……早い待ち合わせだよね。遠くに行くのかな)
時計を見ながら、深知留が寒さと穿き慣れないスカートに居心地が悪そうに膝頭を摺り合わせた時だった。
車のクラクションと共に、一台の車が横付けされる。
それは深知留が予想していた環の車ではなかったが、黒塗りの高級車である。
「おはよう」
環がそう言って顔を出したのは、意外にも後部座席の窓だった。
「おはようございます」
深知留が挨拶を返しながら運転席に目をやると、そこには以前見たことのある横顔が見えた。
深知留は環に促されるままに車に乗りながら、運転席に座る男性に視線を送り、無言のまま環に説明を求める。
「あぁ、深知留ちゃんは彼に会うのは二度目だね? 空港で会っているだろう。
「どうも、吉里です」
環の紹介に政宗は一礼する。
「天音深知留です。よろしくお願いします」
深知留もぺこりとお辞儀を返す。
ふと、環を見やった深知留は今日の彼に少しの違和感を持った。
仕事にでも行ってきたのか、これから行くのか、環は空港で初めて見た時と似たような格好をしていたのだ。そして、その顔は少しこわばった表情だった。
「龍菱さん、お仕事、だったんですか? それともこれから?」
「ちょっとね……」
環は答えを渋ったので、深知留はそれ以上は聞かないことにした。
代わりに、すぐにコートのポケットから社員バッチを取り出し、環に渡す。
今日こそ、忘れましたはあり得ない。
「はい、これ。遅くなりました。忘れないうちに」
「ありがとう。すまなかったね。ところで深知留ちゃん、それ……」
環は言いながら深知留の鞄から顔を覗かせる求人情報誌を見ていた。
「あぁ、これですか? 今バイト探してるんです。母が帰国するまでの短期ですけどね」
深知留は求人情報誌を取り出して環に見せる。
(この人、こんな物見たこと無いんだろうな……)
ふとそんな考えが深知留の頭をよぎる。
「それは好都合」
「え?」
突然意味の分からない事を言った環に深知留は思わず聞き返す。
「深知留ちゃん。バイト、俺のとこでしないか? 今日一日働いてくれたら、それ相応の報酬を支払う」
「ちょ、ちょっと龍菱さん? わたしそんな大それた事できませんよ? スーパーとかコンビニとか……頑張っても家庭教師が関の山で……」
慌てる深知留に環は満面の笑みを返した。
「心配はいらないよ。ただ俺のことを『環』って名前で呼んで、後は何も言わずに一日過ごしてくれたら済む仕事だから。どちらかと言えば、深知留ちゃんにしかできない仕事」
「はい!? 龍菱さん……ちょっと、それ…………」
――意味が分かりません。
深知留はそう続けたかったのに、環が「車出して」と政宗に出した指示にかき消されてしまった。
とりあえず、環がいつのまにやら笑みを浮かべていて、上機嫌になったことだけは深知留にも分かった。
「あの……どういう事でしょう? 龍菱さん」
深知留は過去にあまり経験したことのない圧迫感を腹部に感じながら、絞り出すような声で言う。
「環、って教えたはずだが?」
「……環……さん……」
「そう、その調子。可愛いよ、深知留ちゃん」
環は満足そうに深知留を見ていた。
そんな深知留は今、相当高価な下手したら○百万はするのではないかという振り袖を着て髪を見事に結い上げ、ばっちりと化粧を施されている。
鏡の中に映る姿を見て、深知留は数年前、レンタルの着物を着て成人式の写真を撮った時の姿を思い出していた。
これらは全て環の指示で行われた物である。
車に乗せられた深知留はあれから、どこかのヘアサロンに連れて行かれた。そこで長い髪を神業のように結い上げられ、元々してあった化粧は全て落とされ着物の色柄に合うように施し直され、あれよあれよという間に今の姿に仕立て上げられたのだ。
「環様、いかがでしょうか? 背のお高いお嬢さんですから、着物の柄が映えますよ」
「パーフェクトだ」
深知留の帯を微調整しながら問いかけたこの店の店長に、環は賞賛の言葉を返した。
事実、それはお世辞などではない。
支度の上がった深知留は、環の想像を超える出来映えだった。もちろん、店長の腕はその世界で超一流だがそもそもの素材が悪ければこうまで綺麗には上がらない。
深知留は元々素材自体は悪くない子だと環は思っていたが、少し手を加えただけでまさかこれほどまでに開花してくれるとは思わなかった。
できあがりを初めて見た時、環は一瞬その姿に息を呑んだほどだ。
ほんの少し前までは年齢の割に少女っぽさを残していた娘であったが、今は女性の色香で満ちている。
女は化けるものだ、と環はふっと笑った。
「環……さん、一体この格好は何なんです?」
慣れないのか、深知留は環の名前を呼びにくそうに言う。
しかし、それでも忠実に言いつけを守ろうとする彼女に、環は少し感心していた。
ここは政宗の運転する元の車中。ヘアサロンを後にした深知留は、環にどこかへ連れて行かれるところだ。
「朝のスカート姿も良かったけど、今日はその支度でいて欲しいんだ」
環は隣に座る深知留を満足そうに頭から足先までゆっくりと見る。
「……事情を説明してください。どういうことなんですか?」
「そうやって、俺の名前を呼ぶ以外は大人しくしててくれればすぐ終わる」
「嫌です。説明してください」
はぐらかそうとする環を深知留は逃がすまいとした。
「説明したら深知留ちゃん逃げるだろう? 大丈夫。悪いようにはしない」
深知留は綺麗にマスカラを塗りつけた睫の奥から、澄んだ瞳で環を見据える。
環は居たたまれずに視線を窓の外へと外す。
「……逃げません」
突然深知留の口から出た予想外の言葉に、環は思わず視線を深知留へ戻した。
「逃げません。だから、ワケを話してください」
深知留はしっかりした声で言った。
「本当に?」
「だって、環…さん。どうせ逃がしてくれないでしょう?」
あまりにツボを突いた深知留の言葉に、環はクスリと笑みをこぼした。
確かに、環は今ここで彼女を逃がす気は無い。彼女は既にそれを感じ取っていたのだ。
言葉通り、深知留も深知留で今更逃げようとは思わなかった。ここまで来たら逃げられそうもないし、第一、この重い着物姿では逃げる気力すら奪われる。
ただ、深知留は環が自分にこんな事をさせる理由だけは知りたかったのだ。
「それに、たぶん……何かでお困りなんですよね?」
「なぜ?」
「じゃなかったら、わたしの事情も聞かずにこんな無理矢理に事を進めるような人ではないと思います。環……さんは」
これも、前回の経験で分かっていた深知留は、自信を持って言った。
環は思わず、少し照れたような困ったような顔を見せる。
「じゃあ、教えよう」
結果、観念した環はその綺麗な顔で深知留を見据えた。
そして、聞き間違えようもないほどはっきりした声で彼は言った。
「今から君には俺の恋人になってもらう」