(…………はい?)
 一瞬にして辺りの時が止まったのかと思うほど、深知留はその場で硬直した。
 二人の間に沈黙が流れる。
『今から君には俺の恋人になってもらう』
 深知留は耳に入ってきた言葉を瞬きひとつせず、脳内で何度も反芻していた。
 たっぷりと十数秒間の間を空けて深知留は一応聞いてみる。
「……すみません。今なんて?」
 笑顔を崩さぬままにそう問うてみる。
 反芻して確認してはみたが、万が一にも聞き間違えがあると困るので。
「だから、恋人になって欲しいと言ったんだ」
 環は、聞こえなかったかい? とでもいう風に繰り返す。
(…………聞き間違えは、無いのね?)
 しかし、環は付け加えた。
「正確に言うと、ふり、をして欲しい」
 それに深知留は安心したようにふぅっと大きく息を吐いた。
 体中の力がスッと抜ける。
「あ……フリですね。真似事。そう……恋人の…………って、何でです!? どうして!? 誰が!? いつ!? どうやって!?」
 一度落ち着いたのも束の間、深知留は環の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで迫る。
「深知留ちゃん、落ち着いて。きちんと理由を話すから……ね?」
 環は興奮状態の深知留を宥めながら事情を話し始めた。

 環さんには今、あのロータスロイヤルホテルで有名な蓮条グループの一人娘とお見合い話が出ている
 ↓
 環さんは断りたいが正当な理由がないと相手が納得しない
 ↓
 むやみやたらに断ると、仕事上に被害が出る。でも、結婚はしたくない
 ↓
 きちんとした恋人がいれば正々堂々と断れる
 ↓
 わたしが恋人のフリをする
 ↓
 任務遂行後はバイト代支給
 
 深知留は環の話してくれた内容を頭の中で並べてみる。
 まぁ要所だけを抽出すればこんな感じだ。
「誰か他に……いなかったんですか? わたしみたいな小娘じゃなくて」
 これが深知留の率直な意見だった。
「会社の子に頼むと漏れた時にあらぬ誤解を呼びそうだし。かといって、深知留ちゃん以外に適当な人材もいなかった」
「架空の人物じゃ駄目なんですか? 好きな人がいますけど紹介はできません、って」
「真実味がない。事実を提示してやる方が諦めてくれるだろう」
 すらすらと答えていく環に、深知留は納得させられるばかりだ。
 随分手の込んだ作戦だ、と思うのは深知留だけでなく環本人もである。
 先日、鈴は確かに環に約束した。一度会えば何とでも言って断る、と。
 しかし、環はそれを百パーセントは信用してはいなかった。
 万が一、があるのだ。鈴の場合は。
 雅至上主義の鈴だから、事と次第によっては「やっぱり結婚して。雅さんのために」なんて言われかねない。
 環はそれをしっかり先読みしていた。過去の経験上。
 だから今回はそうなる前に手の込んだ策を練り、あらゆる可能性を絶っておこうと環は考えたのだ。
 結果、今日の見合いの席に自ら『恋人』を連れて行って丁重にお断りする、のが最善策ということになった。
 人選は環なりに一応迷った。
 でも、すぐに環の中で浮かんだのは深知留の顔。それが何故かは環自身も分からない。
 しかし、深知留に頼むと決めたはいいが当日の今日になるまで切り出すことはできなかった。
 どう切り出そうか思案中のまま、気づけば今日になってしまい、さてどうしたものかと環は悩んでいたが、会ってみれば運良く深知留がバイトを探していると言うではないか。後はもう「好都合」とばかりに深知留を巧いこと言いくるめればいいだけだった。
「わたし、こんな大役、務めきれる自信は無いんですけど……。お嬢様みたく礼儀作法とか習ったこともないですし」
 深知留は怖ず怖ずと不安そうに環を見上げる。
 環はそんな深知留の頬をそっと両手で挟むと、自らの顔を近づけて優しく微笑みかけた。
「そんな君が……お嬢様でない深知留が好きなんだ……」
(――――!!)
 環の綺麗な顔が深知留の視界の八十パーセント近くを占める。
 ボンと頬が紅潮した深知留は口元を押さえて、今度こそ鼻血が吹き出したのではないかと心配しながら凄い勢いで視線をあさっての方向へ向ける。
(犯罪です、環さん……。殺人未遂の容疑です……)
 そう思いながら。
「……なんて設定でどうだろう? というわけだから、しばらくは、深知留、と呼ばせてもらうよ」
「……わかりました」
 深知留の事情などつゆ知らずあっけらかんと提案をする環に、深知留はあさっての方向を向いたまま答える。
 自分は意識しないと『環さん』と呼べないのに対し、随分慣れた具合にサラッと『深知留』と呼ぶ環に、これも大人の余裕なのか、と深知留はどうでもいいことを思っていた。








 カッコーーーン
 鹿威しの音が、気持ちいいほど辺りに響き渡る。
「こちら、私がお付き合いさせていただいている天音深知留さんです。いずれは結婚も考えています」
 環の紹介に、深知留はしずしずと頭を下げた。
 あり得ないほどの緊張感が辺り一面を支配している。
 ここはある料亭の特別室。言い換えれば、環のお見合い会場。
(帰りたい……一刻も早く…………)
 深知留は内心泣きそうだった。こんな知らない人だらけのところに放り込まれたことだけでもあり得ないのに、今のこの場の空気の悪さと言ったら無い。
 いや、これでのほほ〜んとした空気でもある意味怖いが。
 深知留は下げた頭を戻しながら、それとなく辺りを見回す。
 大きな机を挟んで、片側には蓮条氏とその妻、娘の三人が座り、向かい合うようにして雅、鈴、環、深知留が座っている。
 この部屋に入る前、環は雅と鈴に深知留を紹介した。
『恋人の深知留です』
 環からそう紹介された兄夫婦は言わずもがなで驚いたが、だったら相手にも会って納得していただこうと、話はすぐに済んだ。
『お兄さんたちに事情は話さないんですか?』とコソッと問いかけた深知留に、環は『敵を欺くにはまず味方から』と人差し指を口の前で立てて見せた。
 環の二つ上の兄、雅は環によく似ていたがそれよりも更に大人びた雰囲気を醸し出していた。しかし、深知留が思わず見とれたのは鈴だ。
 もちろん、初対面であれば雅も見とれるほどにいい男なのだが、環を見て免疫のあった深知留にとっては鈴の方が驚きは大きかった。
(なに、この妖精みたいな人は……)
 それが深知留の最初の感想だった。
 淡いピンク色の着物を着ているせいか、鈴は可愛らしく楚々としていた。
 身長は深知留よりも十センチほど低く、顔は人形のように小さい。今日は栗色の髪を結いあげているが、解いたらクルクルとして可愛いんだろうな、と深知留は思った。
 そして、なにより鈴は年齢不詳だ。下手したら自分より若いのではないかとさえ深知留が感じるくらいに。
 深知留的には、お見合いと言うからには環の両親がいるのかと思ったが、親は仕事で日本にはいないと環は説明してくれた。
「失礼は重々承知の上ですが、断りの理由をきちんと見知っていただく方がよろしいかと思い、本日はこの場に深知留さんを呼ばせていただきました。言葉だけではご理解いただけなかった様ですので」
 しばらくの沈黙の後、雅がはっきりとした口調で言った。
「そうですか。事情は分かりました」
 蓮条氏は無表情ではあったがやや諦めたような、納得したような様子だ。
 しかし、深知留が怖かったのは他の誰でもない。娘の瑞穂だった。
 着物のため少し濃いめに切れ長に引かれたアイラインのせいか、もしくは元々の眼力か……深知留を睨み付けるその目はとにかく怖かった。
(胃、胃が痛い……)
 深知留がそう思うのも無理はないほど、瑞穂は深知留を睨み付ける。
 その後、二言三言交わされた後、深知留はその場から解放され、別の場所で待っているように言われた。








「疲れた……」
 深知留は必要以上の疲労感、あくまで精神的、を感じながら日本庭園の大きな池のそばに立っていた。
 今日はよほど冷え込んでいるらしく、日が昇りきった今も外気は冷たかった。しかし、深知留は着物をキッチリと着込んでいるせいか、それほどには寒さを感じない。
 深知留は秋風をその身で受けながら、先ほどまでの緊張をほぐすようにその場で脱力していた。
 しばらくは何を考えるでもなく、濁った池に視線を遊ばせていた。
 すると、少しばかり水面が動いた気がして、鯉か何かいるのだろうかと深知留は目を凝らす。
 その時だった。
「深知留さん……少し、よろしいですか?」
 背後からかけられた声に、深知留は恐る恐る後ろを振り返る。
「瑞穂、さん…………」
 後ろに立つのは先ほどとはうって変わってにこやかに微笑む瑞穂だった。
 その時深知留は背中に冷たい汗を感じずにはいられなかった。