診察を終えた深知留の病室に、それまで表に出されていた環が再び入ってきた。
 深知留はベッド上で座ったまま環を迎え入れる。
 あくまで余談であるが、ここは病院の最上階にある特別室と呼ばれる個室だ。
 だだっ広いこの部屋には普通の病室にあるものより高級感漂うベッドが一台、それにソファーが一組と重厚な木でできたテーブルが一つ、巨大な液晶テレビが一台置かれている。深知留はまだ立ち上がって散策をしていないので確かではないが、環曰くユニットバスとキッチンが付いているらしい。
 つまり、何というか、この病室はそんじょそこらのワンルームマンションよりもいい造りだ。
 たぶん国会議員とかどこぞの社長さんとかが使うんだろうな、と深知留は密かに確信していた。
「先生はなんて?」
 環はベッドサイドに座るなり言った。
「このまま調子が良さそうなら午後には退院してもいいって言われました。ただししばらくは静かにしていなさいって。……わたし三日も寝てたんですね。ビックリしました」
 深知留はあははと笑う。
「驚いたのはこっちだよ」
 環はそんな深知留にやれやれといった風だ。
「本当にすみませんでした」
 深知留はぺこりと頭を下げる。そして、何かを思い出したように、そうそう、と話を切り出した。
「わたし、大切なこと思い出しました」
「何だい?」
 環は何事かと少し身を乗り出す。
 が、
「お見合い……大丈夫でした? それから、あの着物……やっぱり駄目でしたよね? 水浸しにしちゃったし。あと、瑞穂さん怪我してないですか?」
「………」
 環は連続で挙げられた深知留の質問に答えようとはせず、ただ彼女の顔を見る。
「どうなんです?」
 答えない環を深知留は急かす。
「深知留……それは大切なことなのか?」
 大切なこと、と改めて言われるから何かと思えば……
(……それが三日も苦しんで死の淵をさまよい掛けた人間が気にすることか?)
 環は素直に疑問に思い、そしてなぜか苛つきを覚えた。
「大切でしょ?」
 しかし、深知留の答えは至極端的だ。
「だって、お見合いは環さんの人生に関わることだし、仕事上の問題もあるんですよね? 着物は見るからに高そうでしたし……もしかして西陣ですか? それとも友禅? それに瑞穂さんは、わたしが焦ってて思い切り突き飛ばしてしまったから……どこか怪我してたら悪いな、って」
「怪我くらい大したことじゃない」
 環は一気にこみ上げた苛つきに、思わず冷たく言ってしまった。
「何言ってるんですか、大したことです。だって瑞穂さんは大切に大切に育てられたお嬢様ですよ? 怪我なんかさせたら……」
「そんなことどうでもいい!!」
 環はついに強い語調で深知留の言葉を遮る。
 深知留はそのあまりの迫力に驚いて言葉を止めてしまった。
「だいたい君じゃ……」
 環は一度言いかけたが、なけなしの理性で何とか口を噤んだ。
――君じゃなくて、あの女が代わりに落ちればよかった
 思わず恐ろしい事を言葉に出そうとした自分を、環はぎりぎりのところで抑え込んだのだ。
 唇をガリッと噛みしめるが、環の苛つきは収まらない。
 この三日深知留に付き添い、このまま目覚めなかったら、という怖さに環は何度も怯えていた。それなのに、そんな自分の心配も余所に、目覚めた深知留が心配したのは見合いの結果や着物、挙げ句の果てには恨んだっていいような瑞穂のことだった。
 環も、それらが気になる事だというのを否定する気はなかったが、少なくとも優先順位というものを考えて欲しかった。
 そもそも、深知留が自分のことよりも他人のことを優先してしまう優しい性格だということは、短い付き合いながらも環だって重々承知している。それでも、今回ばかりは何より先に自分の体の心配をしろ、と心底思ったのだ。
「あの……環、さ…ん?」
 こわばった表情で空中の一点を見つめる環に深知留は恐る恐る呼びかける。
「……すまない。なんでもないよ」
 環は冷静さを装って返答したが、深知留の目には、彼が自分の中で何かを押しつぶしたように見える。
 事実、環は怯えるような仕草を見せる深知留に反省し、苛つく自分を抑えようとしていた。
 いくら苛ついていたとはいえ、先ほどのは単なる八つ当たりでしかない。しかし、環はなぜこんなにも自分が苛つくのかは理解できなかった。
「深知留……」
 環は徐に深知留の両手を自分の両手で覆うようにして握る。
 今まで以上に真剣なまなざしで見つめる環に、深知留は瞬時に緊張感を高める。
「瑞穂さんは大丈夫だから、もう気にするな……だから、頼むからもっと自分の心配をしてくれ。それに、あんな無茶は二度としないでほしい。君が目を覚まさない間、俺がどれだけ不安になったか分かるか?」
 環はゆっくりと語りかけるように深知留に言った。
 下手をすれば再び怒鳴ってしまいそうな気持ちを堪えて、環はできるだけ紳士的な態度で深知留に接して自分の思いを伝える。
 すると、
「あの……その……今回は本当に、ご迷惑、おかけしました」
 深知留は俯き加減で叱られた子供のようにそう言った。
 環の気遣いが功を奏したのか深知留はその心を申し訳なさで一杯にしていたのだ。
 その時、深知留は看病疲れで寝ていた環の姿を思い出していた。そして、今目の前にいる環がお見合いの日に見た時よりも、いくらかやつれてしまったことに気づいていた。
 それは言葉通り、環が深知留を心底心配していた、ということを証明するものだ。
(環さんは優しい人だから……また責任感じさせちゃったのかな?)
 そう考えたら、深知留は何だかとても悪いことをした気分だった。
「おかげで、俺は寿命が縮んだ」
「本当に、ごめんなさい……。でもほら、わたし意外と頑丈みたいです。母が丈夫に産んでくれましたから」
 深知留はえへへ、と環に笑って見せる。
 しばらくはそのまま笑顔を見せていた深知留であったが、やがてその脳内であることが思い出されるのと比例して、表情を次第に強ばらせていった。
 そして、
「そうだ!! お母さんに連絡!!」
 深知留の思考回路がそこに行き着くのと叫んだのはほぼ同時だった。
「あの、環さん、わたし三日も寝てたんですよね!?」
「あぁ、ちょうど丸三日。池に落ちたのが土曜日で今日は火曜日だ」
 環は冷静に指折り日にちを数える。
「母にメール返さなきゃ!! ……ううん、もう電話した方が早い!? イギリスって今何時ですか? とにかく、音信不通できっとすっごく心配して……あぁ、どうしよう!!」
 突如パニック状態に陥った深知留を環は至って冷静に見つめている。
 それどころか環は、
「お母様のことは、心配いらないよ」
 さらりとそう言った。
 そんな環に深知留は飛びかからんばかりにその身を乗り出す。
「何言ってるんですか!! 今まで毎日一回はメールのやりとりしてたんですよ。一週間に一度は電話も。そりゃ時差がありますからメールはそれなりに放置することはありましたけど……。でも、三日も明けたことはないんです。とりあえず、わたしの携帯……」
 話にならん、とばかりに今にもベッドから飛び降りようとした深知留の両肩を環はそっと押さえる。
「深知留、落ち着いて。本当に焦らなくても大丈夫なんだ」
「落ち着いてなんていられません!! とにかく母に連絡を……」
「あのね深知留、君のお母様には既に連絡してある。君が池に落ちたその日に」
 制止を振り切ろうとする深知留に環は言った。
 それはあまりに落ち着いた声で、深知留が思わず聞き間違いかと思うくらいで。
「………」
 深知留は電池の切れたおもちゃのように、その動きをピタリと止める。
「それからもう一つ……」
 環が深知留の様子をうかがいながら言葉を続けようとしたその時だった。
 コンコン、というノックの後『どうぞ』という返事も待たずに病室の扉が開いた。
「こんにちは。深知留ちゃん。気分はどうかしら?」
 にっこりと笑って病室に入ってきたのは深知留の記憶に新しい鈴だった。