鈴と深知留が部屋を出て行った後、雅はメイドが随分と前に用意してくれたコーヒーに口を付け、冷えて香ばしさが半減したそれをゴクリと飲んだ。
「空港で出会ったんだって? 深知留ちゃんと」
「その情報源は政宗?」
雅からの質問に環は別の質問で応対する。
「お前のスーツに絡んだ髪の毛を、彼女は動じることなく切ってくれたと聞いた」
環は何の返事もしないまま、おしゃべりな奴だ、と政宗の顔を思い出す。
「その行動も、彼女を見ていると頷ける気もするな。それに見合いの日、深知留ちゃんはあの瑞穂さんに対等に渡り合ったそうじゃないか。それどころか説き伏せたって? ますます頼もしいね」
雅はフフッと笑みを零す。
環は雅の話を聞きながらその時の深知留を思い出していた。
あの時、深知留を端から庶民だと馬鹿にして挑発した瑞穂に対し、彼女はその挑発に乗ることもなく至極冷静に応対していった。
確かにその姿は勇ましくさえあったと思う。
実際、環も深知留があそこまでやってくれるとは期待していなかった。
だから瑞穂が深知留の元へ向かったと政宗から通告を受けた時に、環はボロが出ないうちに深知留を助け出すつもりで彼女の元へと向かったのだ。しかし、それは杞憂でしかなかった。
深知留は与えられた役割を十分にこなしてくれた。誰が見ても本当の恋人だと断言するくらいに。
それは環にとっては何とも不思議な光景だった。つい先日、チョコレート一枚で子供のようにはしゃいでいた彼女とは、とてもじゃないが同一人物とは思えなかったほどだ。
「まだ子供のような反面、時折凄く大人びて見える。不思議な子だよ。それにいい目をしている」
環は足を組み直して窓の外へと視線を遊ばせる。
雅は弟の穏やかな表情をじっと眺めていた。
「お前とは八つも違ってまだ学生だと言うから、初めは俺も何を馬鹿げたことを、と思ったよ。でもあの子を見てると年齢なんて感じないし、お前の言う通り確かにいい目をしている。……だから好きになったんだろう、深知留ちゃんを」
先ほど凛とした表情で自分を見据えた深知留の目を雅はその脳裏に写し出す。
「…………」
深知留を本当の恋人だとすっかり信じ込んでいる兄に、環は特に答えなかった。
「そうだ、環……」
雅はそんな環を見ながら何かを思いついたようだった。
深知留は今、どう考えても見覚えのある部屋のソファーに座っていた。
目の前のテーブルには大きな花瓶に溢れんばかりの花が生けられており、そばにいるとむせかえるほど香ってくる。
先ほどまで深知留は鈴に先導されてあり得ないほどに広い屋敷の中を歩いていた。自分に与えられるであろう部屋に向かって。
しかし、一人のメイドが小走りに深知留たちを追ってきたところから話はおかしくなった。
メイドは鈴にコソッと何かを耳打ちした。すると、話を聞き終えた鈴はにっこりと笑い、そのまま方向転換をするように深知留を連れて今の部屋へとやってきたのだ。
鈴は深知留を部屋のソファーに座らせると、さっさといなくなってしまった。
一人残された深知留は部屋をぐるりと見渡す。
手入れの行き届いた調度品の数々が自ずと視界に入る。本棚やテレビ、豪奢な絨毯に深知留が今座っている本革張りの白いソファー。
全体的にシックで落ち着いた雰囲気を醸し出しているこの部屋……深知留はどう考えても見覚えがあった。
前回はダウンライトで全体的に暗かったが今は照明が煌々と輝いていて部屋の隅々まで見える。そのためいくらか印象が違う気もするが、深知留は現実と記憶を重ね合わせる。
そして、深知留は自分の右手側にある閉じられた引き戸に目をやる。
(たぶんあの戸の向こうは……)
深知留が一つの結論を出そうとした時だった。
ガチャ
「ちょ……兄さん!」
ノックも無しに開かれたドアからなだれ込んできたのは雅と環の兄弟だった。
「あ、深知留ちゃん。部屋は気に入ってもらえた?」
雅は何がそんなに嬉しいのか満面の笑みで深知留に話しかける。
「兄さん、深知留には離れの静かな部屋を……」
「環、お前は黙ってて」
焦った様子の環を雅はうるさいとばかりに一刀両断する。
「あの……雅さん?」
深知留は突然の出来事に、雅に説明を求めるように首を傾げた。
雅はそんな深知留と視線を合わせるように腰をかがめ、そして言った。
「深知留ちゃん、ここにいる間は環の部屋を一緒に使うといい」
「は、はい!?」
深知留は耳に飛び込んできた言葉にその目を見開き、思わず聞き返してしまう。
「ほら、兄さん。深知留も困ってるから、やはり離れに部屋を……」
驚愕の表情を見せる深知留に、環は懸命に雅を説得しようとする。
しかし、
「深知留ちゃん、遠慮はいらないよ?」
雅はもはや環など眼中に入れていない。
深知留はちょっと前にブランドショップで聞いた覚えのあるような雅の台詞に対し、悠長にも懐かしさを覚えながら思考回路を回転させる。
雅の提案を元に、深知留はとりあえず自分の限りなく近い未来の生活を予測していたのだ。
(環さんと同じ部屋を使うって事は生活がずっと一緒ってわけで、お互いが学校や仕事に行く以外は四六時中一緒で、それってつまり寝るのも起きるのもずっと一緒で…………)
「む、むむむ無理です!! け、結構です」
気づいた時には、深知留はやはりちょっと前にブランドショップで自分が言った覚えのある台詞を必死に言っていた。
(本当の恋人ならまだしも、そうじゃない男女が一つの部屋なんていくらなんでもおかしいでしょう!?)
深知留の意見は至極正論である。ただし、これは内情を知っていればの話であり、環と深知留が既に恋人同士だと思って疑わない雅にとっては微塵も思わないことなのだ。
「大丈夫だよ、深知留ちゃん。せっかくだから同棲気分を味わったらいい。そういうの、経験したい年頃だろう? 何なら二人のためにマンションでも用意しようか? それも良いかもしれないね。確か空いている物件が……」
雅は既に、お兄さんに任せなさい、とでもいうような勢いだ。
「あの、雅さんちょっと…………」
「雅さん、なんてそんな他人行儀な。お兄さん、て呼んでくれて良いんだよ? 深知留ちゃん」
(話にならん……)
深知留はめげそうになったが、それでも何とか雅に話を聞いてもらおうとその後も挑戦した。が、いずれも取り合ってはもらえず不戦敗に終わったのは言うまでもない。
環は、といえば既に諦めたのか頭を抱えたまま何も言おうとはしなかった。
最後に雅は、
「二人の時間をごゆっくり」
そう行って満足そうに部屋を出て行った。
雅という嵐が過ぎ去った後、深知留と環は無言のままソファーに向き合って座っていた。
沈黙がしばらく続いた後、環は徐に立ち上がり深知留の額にそっと手を当てる。
案の定、深知留はまだ熱が下がりきっていないようだ。
(また無茶をさせてしまった……)
環は小さくため息を吐く。
「深知留、もういいから横になりなさい。まだ完全に治ったわけではないんだ。医者も言っていただろう? 退院しても安静にしていろと」
深知留はひんやりとした環の手に心地よさを感じながら、上目遣いに環を見上げる。
環は何だか困ったような、呆れたような顔をしている。
(わたし、また……迷惑掛けてる)
深知留は居たたまれずに視線を落とした。自分の不甲斐なさに環の顔を直視することができなかったのだ。
しかし、今は寝ている場合ではないと深知留は思う。
「あの、環さん……わたし、大丈夫です。だから……」
そう言いかけた深知留の口を、今まで額に置かれていた環の手が閉じた。
「君の言いたいことは分かっている。でも、とにかく今は休むんだ。今後の事は後で話そう」
落ち着いた声で言い聞かせる環に深知留はそれ以上何も言えなかった。
そして、環のすすめを受けて深知留は環のベッドで身を休めた。