深知留はしばらくの睡眠を取った後、メイドの来訪で起こされた。
 気が付いてみれば窓の外は真っ暗で時計は既に八時を指していた。
 メイドによってダイニングへと誘われた深知留は環、雅、鈴と共に遅めの夕食を摂った。
 まだ食欲のない深知留は料理に少し手を付けただけでお腹が一杯になってしまったが、自分が起きるのを待っていたであろう環たちが食事を終えるまでその場に座っていた。
 高熱を出し続けると疲れるのは当たり前だが、少し動くと息が上がる自分の身体を深知留は恨めしく思う。
 夕食後、環の部屋に附属しているバスルームでお風呂を済ませた深知留は、ソファーでしばらく環を待っていたがいつの間にか眠りに落ちてしまった。
 やがてどのくらい経っただろうか、
「…………」
 深知留は身体が浮くようなふわふわした感じに違和感を覚え目を覚ました。
「ごめん、起こしてしまったね」
 今ではもう随分と見慣れてしまった綺麗な顔が深知留の目に飛び込んでくる。
 部屋はいつの間にかダウンライトのみになっていて全体的に暗かったが、それでも誰なのかは認識できるくらい深知留はその顔には見慣れていたし、今更驚きもしなかった。
 深知留はふと自分の身体を見回す。
「え……? た、環さん!?」
 思わず声を上げ、騒ぐ深知留。
 気づけば彼女の身体は環にお姫様抱っこをされていたのだ。
「騒ぐと落ちる。ベッドまで運ぶだけだから」
「はい……」
 深知留は恥ずかしさで環の胸に顔を埋め、消え入りそうな顔で返事をする。
 やがて環は深知留の身体をベッドにおろすと、自分はベッドの端に腰を下ろした。
 よく見れば環は風呂上がりなのか、髪の毛は少し湿っぽい。支度はといえば、パジャマらしきものの上から黒のシックなガウンを羽織っている。
 ベッドサイドの時計を見れば時刻は既に十二時を回っていた。
「まだ、辛いか?」
 環は深知留の額に手を当てる。
 深知留は静かに首を横に振る。
「おかげさまでだいぶ楽になりました。まだ長時間は動けませんけどね」
「今週いっぱいは薬を飲んで大人しくしているんだな」
 環は額に当てていた手で深知留の髪の毛をくしゃりと撫でた。
 二人の間にゆったりとした沈黙が流れる。
 どのくらい時が流れたのか、最初に口を開いたのは環だった。
「深知留……すまなかった」
 深知留は今まで俯けていた視線を環に向ける。
「こんな事になってしまって……怒って、いるんだろう?」
 環は悪戯をして叱られている子供のように項垂れていた。
 深知留はそれが何だかおかしくてフッと笑みを零してしまう。
「そうですね。まぁ怒ってはいませんが……困ってはいます」
 環は、やっぱり、と更に深く項垂れる。
「でもね、環さん。別に環さんのせいじゃないですから。そもそも偽恋人を引き受けたのはわたしの判断ですし」
 環はその言葉に少し顔を上げる。
 てっきり責められるとばかり思っていた環にとってそれは予想外のものであった。
 深知留はそんな環に微笑んで見せる。
「だけど、こんな事に巻き込んでしまったのは俺の責任だろう?」
「確かにそうですね。だけど、環さんだってあの時こうなることは予測できなかったでしょう? そりゃ初めからこの顛末が分かっていて巻き込んだなら恨みますよ。でも、こうなったのは不測の事態です。それに、池に落ちるなんてアクシデントが無ければこんな事にはならなかったと思いますし……」
 深知留は口ごもるように言葉を終えた。
 今言った通り、あの時もう少し自分に瞬発力と注意力、それに危険予知能力があれば池にも落ちずこんな事にもならなかったのだと深知留は確信していた。
 今更無い物ねだりをしたところでどうしようもないのであるが。
「まぁ、一日バイトするつもりがちょっと長引いちゃったって思うことにします。だから気にしないでください」
「深知留、その事なんだが……」
 何だかとても言いにくそうに切り出した環に、深知留はピンと来た。
「あ、環さん、誤解しないでくださいね? バイト代がどうとか請求しているわけじゃないんですよ!? むしろ、バイト代いりませんから。入院費とか全部面倒見てもらってその上バイト代なんて、厚かましすぎますし、その程度の弁えはあるつもりです」
 深知留は必死に否定する。
 しかし、環はその事を議題にしたいわけではないのか相変わらず渋い顔をしている。
「確かにバイトのことには違いないんだが……」
「何です? もしかして……やっぱりお見合い失敗しました? 雅さんや鈴さんは平気でも瑞穂さんには偽恋人だってバレちゃったとか?」
 環の表情に深知留は他に思い当たる節を考え、わずかにその顔を引きつらせる。
「いや……」
「やっぱり……わたしじゃ駄目だったんですよね? 環さん……病院で言いかけてやめたでしょう? 『だいたい君じゃ……』て。あれって『君じゃ役に立たなかった』ってことじゃないですか?」
「深知留……君、何を……」
 環は少し驚いていた。
 あの時、環の言いかけた酷く歪んだ思いを深知留はそうとも知らずにずっと気にしていたのだ。
 何より人のことを思いやる彼女らしいと言えばそうなのだが……
「良いんです。駄目なら駄目ではっきり言ってくださって。だからわたしじゃ務まらないっていったでしょう? でも……すみません、わたしのせいで……環さんに迷惑が……」
 深知留はすっかり俯いてしまった。
 お見合いにも失敗して、入院までして迷惑をかけて……深知留は相当な自己嫌悪に陥る。
 しかし、
「違うよ、深知留。君は自分のことを卑下しすぎる。お見合いはむしろ問題ないくらいの成功だったんだ。いや、上手くいきすぎたくらいだ」
 環が返したのは意外な答えだった。
 そして環は続けてある方向を指差す。
「お花……?」
 深知留は環の指先に見あたるものを言葉にする。
「あれは蓮条さんからのものだ。君にって」
「蓮条さんから?」
「そう、蓮条さんから君への謝罪とお見舞いの印だそうだ。これだけじゃない。玄関やリビング、廊下にも花があったろう? 覚えていないか? 義姉さんが花に罪はないって飾ってくれたんだが……」
 言われてみれば、と深知留は記憶を辿る。
 確かにこの部屋以外にも玄関やリビング、先ほど食事をしたダイニングなど要所要所で花瓶から溢れんばかりの花を見かけた記憶が深知留にはある。
「大切な恋人にとんでもないことをしてしまった、とね。……それどころじゃなく、以前から推し進めていた業務提携の話も瑞穂さんとの結婚を条件にしていたんだが、今回の件があってか二つ返事で承諾してきた」
「だったら、よかった……」
 業務提携やら何やらに関しては深知留には難しい話であったが、それでもとりあえずお見合いの件がうまくいったことに彼女は胸をなで下ろす。
「それなら、わたしももうお役御免ですね。明日にでも雅さんと鈴さんに事情を話しましょう。それでわたしも家に戻ります。ね?」
 めでたしめでたしとばかりに嬉しそうに話す深知留とは裏腹に、環の顔は一向に冴えない。
「あの……環さん? どうかしました?」
 深知留は少し不安になって環の様子を窺う。
 すると、環は切羽詰まったように深知留の両手を力強く握りしめた。
「深知留……」
 環の真剣な瞳に深知留が捕らえられる。
「もう少し……もう少しだけ、俺の恋人でいてくれないか?」