「……へ?」
 真剣な環の言葉とは反対に深知留は何とも間の抜けた声を出す。
 しかし、
「近々、うちと蓮条グループの業務提携を祝ってささやかなパーティーが催されることになった。それに是非深知留を同伴して来て欲しいと言われたんだよ」
 今ひとつ状況を理解しきれない深知留などお構いなしに、環は淡々と説明を始める。
「えと……それは、その……そう! 深知留は所用があって出席できません」
 深知留は引きつる顔で即座に言い訳を提案した。
「日程は今のところ一ヶ月半後の十二月十四日となっているが、蓮条さんが深知留の予定と体調に合わせると言っている」
「じゃあ、当日になって急病です、とか? それとも、急遽イギリスの母の元に行きました、なんてどうです?」
 深知留は苦し紛れに何とか断れそうな案を捻出し続けたが、環は無理だとばかりに首を横に振り続ける。
 そして、もはやこれまでとばかりに深知留は最後の秘案を持ち出した。
「だったら……恋人とは価値観の不一致で別れました、で行きましょう。これしかないですよ、環さん」
「俺に瑞穂さんと結婚しろ、と?」
 環は恨めしそうに深知留を見つめる。瞬きもせずじっと。
 気が付けば、深知留はその捨て猫のような顔をする環から目を反らせなくなっていた。
「バイト代はもちろん上乗せする。それさえ済めばもう迷惑は掛けない。だからあと一度だけ。俺を助けると思って、ね?」
 バイト代はさておき、環の最後の言葉は反則だった。深知留は性格上、そんなことを言われたら捨て置けるはずがない。
 もちろん環は、真剣に頼まれたら断れない、困っている人は放っておけないという深知留の習性を十分理解した上でこのような手段を取ったのだが、当の本人である彼女はそんなことを知る由もない。
 その間も環は深知留をジッと見つめる。
(お願い……そんな目で、見ないで…ください……)
 深知留は心底思うが、環はそれをやめない。
 そして、
「う……分かりました。本当に…もう一回だけですよ?」
 深知留は遂に渋々その首を縦に振った。 
「ありがとう、深知留」
 環は深知留の返答を聞くなり、パアッとその顔に笑みを浮かべた。
(あ、また……お日様みたいな笑顔だ……)
 深知留は彼の笑顔を見ながら、そんな顔をされたら余計に断れない、と思った。
「じゃあ深知留、おやすみ。俺はソファで寝るから、何かあったら起こすんだよ」
 環は深知留の髪をくしゃりと撫でるとゆっくり立ち上がる。
「ちょっと、環さん……」
 深知留は思わず歩き出そうとした環のガウンの裾をクッと引いてしまった。
「何?」
「わたし…わたしがソファーで寝ます。だってここ環さんのベッドでしょう?」
 深知留は言いながらベッドから降りようとする。
 環はそれをすかさず止める。
「何を言ってる。君はまだ病人だよ? 自覚しているのか?」
「そんな、環さんだってわたしに付き添ってて疲れてるのに……フェアじゃないです」
 深知留は言いながら少し膨れる。
「そういう問題じゃないだろう。いいから、さっさと寝なさい」
 再び歩き出そうとした環に対し、深知留は未だに掴んでいたガウンの裾をもう一度引く。
 そして、再度の足止めに振り返った環に言った。
「だったら……一緒に寝ましょう?」
「……え?」
 深知留の予想外の台詞に環は思わずその目を見開く。
 一瞬聞き間違えかとも思うが、この静かな空間でそれはまずない。
(どういうつもりだ……?)
 環は意味を解せずにいた。
 深知留はそんな環を知ってか知らずか下からジッと見上げている。
 そのアングルは、はっきり言って今の環にとっては勘弁して欲しかった。
 鈴が見繕ったと思われる胸元が広めに開いたネグリジェを身につけている深知留は、本人にその気がなくともどう考えても環を誘っているとしか思えない。
 もちろん、そういうシチュエーションを想像した上で鈴が選択したネグリジェなのだが、今の環にとってはありがた迷惑もいいところだ。
 その時、彼の脳裏には病床で無意識に水を強請っていた深知留の姿が思い起こされていた。
 上気した頬に汗ばむうなじ、唇から漏れ出るのはくぐもった艶めかしい声……
 環はそれを必死でかき消す。
「……あのね、深知留……君、自分が何を言ってるのか分かってる?」
 たっぷり数拍の間をおいて環は、少し困ったように、しかし至極真面目に尋ねる。
 すると、やはり深知留も数拍の間をおいて、
「……べ、べべべ別にそういう変な意味じゃなくて! ベッドも広いし……その何というか、ソファーで寝るよりか……体の負担が、その……」
 環が意図することを理解したのか、その顔を見る見るうちに赤らめた。そして、ものすごい勢いで環から視線を外し、言い訳にもならないような言葉を思いつくままつらつらと並べ立てる。
 一応深知留も年頃の娘だ。『そういうこと』の意味くらいはきちんと理解できる。
(わたし、何誘っちゃってるのよ……)
 思えば随分と大胆なことを言い放った自分に、深知留は今更後悔をする。
「分かったら、不用意なことは言うもんじゃない。俺だって男だよ? 君に何をするか分からない。人を気遣う優しさは深知留の良いところだけど、少しは自身の危機感てものを持つべきだ」
 環は再々度踵を返してベッドルームから出ようとした。
 が、
「……離してくれないか?」
 環は未だにガウンの裾を離さない深知留を振り返る。
「やっぱり……一緒に寝ましょう?」
「深知留、今人の話を聞いてたのか?」
 環は再びため息混じりに言う。
「聞いてました」
「だったら……」
「大丈夫です。わたし、環さんのこと信じてますから」
 深知留は環の言葉を遮りながら自信満々の笑みを浮かべていた。
「わたしの危機感は環さんを危険人物だとは認識していません。それに、環さんは酷いことなんて絶対しませんよ。だってわたし、環さんが優しい人だっていうの知ってますもの。さぁ、もう寝ましょう?」
 深知留はそう言うと、先にベッドに潜り込み環においでおいでをしている。
 環は困ったような顔をしながらも、敵わない、とばかりに深知留の隣に自身の体を滑り込ませた。








 翌朝、深知留が起きると環は既に仕事に出かけた後だった。
 深知留が遅めの朝食を終えると、鈴が部屋へとやってきた。
 用件は簡単で、体調が良ければ午後からショッピングでも楽しみましょう、との事だ。
 夕べゆっくりと寝たおかげですっかりと調子を取り戻していた深知留は、鈴の誘いに乗ることにした。しかし、その日鈴は深知留をどこかへ連れ出すわけではなかった。
 やってきたのはお店の方。有名高級ブランドショップが屋敷まで外商に来たのだ。
(外商って……初めて見た……)
 深知留は初体験に驚きつつも、冷静に感動した。
 しかし、感動を覚えているうちはまだ良かった。
 いざ品定めが始まれば、深知留はそれどころではなく……鈴は環のように深知留に選択肢を与えなかったのだ。
「本当に、結構です。無理ですってば」
 深知留がそうやってどんなに断ろうとしても、鈴は全く聞く耳持たずで、
「快気祝いだから気にしないの」
 と、次から次へと深知留に似合いそうな洋服や装飾品を選んでいく。
 大部分は深知留の物であったが、鈴個人の物もいくつか購入し、最終的に支払った額は一体どれくらいになったのだろうか? と深知留はいらないところで不安になった。
 鈴は手慣れた雰囲気で支払いの手続きをとっていたが、深知留は戻った体調が再び悪化しそうで伝票を見ることはできなかった。体調不良でなくても、この買い方は庶民の心臓には悪すぎる。
 深知留はあまりの生活レベルの違いに、一日目にしてバイト延長を引き受けたことを後悔し始めていた。
 
 それから、鈴は毎日のように深知留を誘いに来てくれた。
 恐らく自分を気遣っての鈴の好意だろうと思っていた深知留は、その誘いを断ることができなかった。それでも、ショッピングだけは勘弁して欲しい、と伝えた。心臓に悪いから、というのは敢えて黙っておく。
 すると鈴は深知留の意向を汲んでくれたのか、美術館や博物館、劇場といったところへ連れて行ってくれた。外出をしない時は中庭や鈴の部屋に深知留を招いて、二人だけの小さな小さなティーパーティーを開いてくれたりもした。
 おかげで、長いと思っていた深知留の療養休暇はあっという間に過ぎていった。